2015年10月7日水曜日

なめらかな社会とその敵




本書は難解である。僕にはなじみのない経済学や貨幣システムが出てきたかと思えば、難解な数式である。これはもうお手上げかと思うのが、その文体が本書を一気に読ませることを可能にする。著者のメタメッセージが僕を離さないほどに魅力ある文体だ。同じような経験は浅田彰の「構造と力」を読んだ時と似ている。書いてあることのほとんどは理解できないのだけれど、その文体が読むことをやめさせない。そういえば出版社も同じ勁草書房だ。

本書の構想を本気で理解するにはさらなる精読が必要であろうし、バックグラウンドとなる知識も幅広く学ばなければならないと痛感させられる。しかし本書の第一部だけも繰り返し読むことで、全体の構想がおぼろげに見えてくるだろう。以降は具体的な社会への応用を数式から基礎づけ、構想を具現化するプロセスである。

この世界は2極化している。医療においても2元論はそこここに積もっている。良い、悪い、効果あり、効果なし、有効、無効。医療とは曖昧なものである。本来曖昧なものをあいまいなまま受け入れることにこそ医療の本性がある。95%信頼区間が示す曖昧性よりも具体的なビジュアルで迫ってくるのが本書で挙げられているシグモイド曲線である。

疾患名によるカテゴライズが、身体的不条理、あるいは異常な健康状態という囲いを作る。そして医療概念はその囲いをあたかもコントロールするかのよう、知識の中央集権化をはかり、身体的不条理、異常な健康状態を制御しようとする。適切性という考え方そのものが、何かを制御できるという信憑にとらわれている。

分類という仕方は、世の中をより単純にしていく。そしてあらゆる現象を制御可能にするという信憑を人に植えつけてゆくが、本来、制御可能と信じられている現象はおそらく複雑系そのものである可能性が高い。世の中を単純化することで、コントロールという錯覚が生まれるのだ。

疾患かそうでないのか、健康か病気か、正常か、異常か。その境界の「曖昧性」はこの社会ではあまり強調されない。60%病気で40%健康な状態というのがどういう状況なのか、僕たちは想像しづらいだろう。そう、2極化することでこの社会は動き出す。しかし、2極化された極点にある、例えば「正しい治療」というのは常に様々な価値負荷的な要素を孕んでいて、それは治療をする側も、される側も、正しさを一般化できないという側面を忘れがちだ。

健康へのベネフィット、健康へのリスク、やはり一度、両極端に思考を振り切らせた方が良い。どちらか一方というのは好ましくない。両極端に振り切れたところに、極端なシグモイド世界が見えてくる。「λ」を小さくすることで見えてくる、多元主義世界の様相を想像してみたい。

2015年9月11日金曜日

「科学的世界像」を読む~構成主義的経験論とは何か~

バスティアーン・コルネリス・ファン・フラーセン(Bastiaan Cornelis van Fraassen)は米国の科学哲学者である。1980年の著書『科学的世界像』(邦訳は1986年、以下本稿では、本書をB.C.ファン・フラーセン1986と表記する) において、科学的反実在論の立場から構成主義的経験論 (constructive empiricism) [1]を提唱した。

僕にはこの構成主義的経験論という考え方がものすごく腑に落ちた。本書は非常に難解である。基礎科学理論や科学史、科学哲学の基礎を有さない僕が一朝一夕に理解できるようなものではないかもしれない。しかしながら「現象を救うこと」「経験的十全性」というワードは僕の基本的な考え方にとてもフィットした。僕はこういうやり方でやりなさい、といわれるのが実はあまり好きではない。もちろんケースバイケースなのだが、やり方をどうしようが結果得られるものであれば、そのプロセスはどうでもいいじゃないか、あなたにどうこういわれる筋合いはない、というひねくれ者である。そういったひねくれ者が故に摩擦を起こすことも経験上ある。しかし医療にたずさわる仕事していて、メカニズムやプロセスとリアルな現象は分けて考えるべきだ、という事を僕はEBMから学んだ。ひねくれ者の僕にはEBMという考え方がものすごくフィットしたのである。

話がそれそうなので、戻そう。本稿はB.C.ファン・フラーセンの主著「科学的世界像」を読みながら、同時に科学哲学者で名古屋大学大学院教授の戸田山和久さんの著書「科学的実在論を擁護する」(戸田山 和久 科学的実在論を擁護する 2015/2/28 名古屋大学出版会、以下、戸田山和久2015と表記する[2])を引用しながら、構成主義的経験論について重要な部分をまとめていこうという試みである。





















[科学的実在論をめぐる論争]
構成主義的経験論の理解には科学的実在論をめぐる論争のあらましを知っておく必要が有ろう。但しここではその詳細を述べる余裕はないし、僕自身がそれを語れるほど科学哲学のバックグラウンドを有していないという大きな問題がある。それでも本書の理解に必要な科学的実在論とその批判について簡単にまとめておこう。

科学的実在論とは、科学において措定される観察不可能な事物が存在するという考え方であり、しばしば「成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真(approximately true)である」という形で定式化される[3] 要するに、理論対象が存在するという立場を科学的実在論というわけだ。B.C.ファン=フラーセンによる定義では

科学は、その諸理論において、世界がいかなるものであるかについての文字通りに真なる叙述をわれわれに与えることを目標とする。そして、一つの科学理論の承認には、それが真であるという信念が含まれる。これが科学的実在論の正しいテーゼである。(B.C.ファン・フラーセン1986 p34)

これは科学感に対する極めて常識的な態度と言えよう。様々な物理法則も実際に経験、観察不可能な理論の存在を前提としているからこそ、現象を予測しえると普通は考える。しかし、歴史的にみれば、論理実証主義をはじめ、科学的実在論は様々な批判を浴びてきた。実は科学史において「ある」と思われていた事柄が、実際には「ない」とされてきた歴史が多々ある。その代表ともいえるのが燃素(フロギストン)や熱素(カロリック)であろう。このあたりの詳細は科学史の成書に譲りたい。実在論を批判する反実在論的立場は様々なバリエーションがあるが少なくとも、本書の理解には以下の3つのテーゼを知っておく必要がある。

まず、奇跡論法に代表されるような最良の説明への推論への懐疑。そして、デュエム・クワインテーゼに代表されるような理論の決定不全によるもの。さらにラウダンの悲観的帰納法がある。デュエム=クワインテーゼとは、どんな仮説でもどんな観察からも指示される決定実験の不可能性に関する極論である。本書でファン=フラーセンが展開する概念はこのうち特に最良の説明への推論への懐疑をターゲットにしている。

フラーセンは徹底的な意見論者であり、悲観的帰納法という立場をとらない。また決定不全を認めるなら、理論T1T2のどちらが経験的に十全なのか決めてはないという事を十分に理解したうえで、構成主義的経験論を展開し、科学実在論を批判する。フラーセンは

一つの科学理論の承認に含まれる信念は、その理論が、『現象を救う』ということ、つまり観察可能なものを正しく記述する、ということだけである。(B.C.ファン・フラーセン1986 p26

と述べている。どういう事だろうか。
科学的活動とは発見するという活動ではなくむしろ構成する活動である、という私の見解、すなわち、現象に対して十全なものであるべきモデルの構成であって、観察不可能なものについての真理の発見ではない(B.C.ファン・フラーセン1986 p28)

これが構成主義的経験論の基本的な考え方と言える。すなわち観察可能なものをいかに正しく記述するか、「経験的に妥当な理論を作る」それが科学の目的であり、観察不可能な理論に対して、その真のあり方を示すことは科学の範疇ではないと主張する。

物理理論はたしかに、観察可能なものよりもずっと多くのものを記述する。しかし重要なのは経験的十全性であって、観察可能な現象を越えたところでの理論の真偽ではない。(B.C.ファン・フラーセン1986 p125)

これまでの経験主義と異なり、観察不可能な理論の実在は認めるが、それが経験的に妥当であれば(フラーセンは経験的に十全[empirically adequate]という言葉を使う)それが正しいか、正しくないかはどうでも良いという立場をとる。しかし、ここで対象の実在性について観察可能と、不可能の区別はいったいどうなっているのだ、という批判もあるだろう。

対象の実在性について、観察可能なものと不可能なものの区別は可能か、と言う問題に、フラーセンは、「恣意性の問題なしにこの問題に答えることはできない、という事は認めよう」としたうえで、その帰結として「観察可能というのは曖昧な述語だ」と述べている。そしてその曖昧性が問題となるのは「曖昧な述語を支配する論理を定式化しようとするときである」と主張する。また「曖昧な述語は、明白な事例と明白な凡例さえあれば使うことができる」として、観察可能なものと不可能な物の区別は可能だというわけである。[4]
観察可能なものと不可能なものを線引きせずに区別するという戦略でこの批判をかわす。個人的にもこの批判は本論の核心をついていないと感じる。それゆえフラーセンのとる戦略が言語哲学的には理路があまい印象はあるが、これは現象を前に人の感覚的が実感しうる感覚としては疑いのないように思える。

[構成主義的経験論がもたらすもの]
構成主義的経験論の考え方は、現象を救うことさえできれば、その理論の実在性には関知しないという立場をとるがゆえ、理論の真偽にはコミットしない。しかしそれでは科学の新たな展望は望めないのではないか、実は僕にもそう思わざるを得ない部分もあった。

「何とかして観察可能な新奇な現象を生み出そうとして科学者は努力する。そうした実験が成功した後には、構成的経験主義者は、その新しい現象を救い、理論の経験的十全性を保つために、理論に当該対象を置くことを認めるだろう。しかし、そもそもそのような新奇な現象を生み出そうとする努力はなぜなのか?」(戸田山和久 2015 p145)

これは重要な示唆であり、構成主義的経験論者への強力な反論といえよう。実在論者には「預言された対象が本当にあるのかを確かめるためだ」という答えがあるが、構成主義的経験論者にはどのような動機でわざわざ新奇な現象を生み出すかは明らかでない。この指摘はかなり痛いところだ。僕自身も科学的実在論なしに科学の新たな側面を知ることはできないと思う。戸田山は「構成的経験主義者の科学感はやはり重要なものを失っているのである。(戸田山和久2015 P147) 」と手厳しいく批判する。

構成主義的経験論で言う「実験」とはどのようなとらえ方がなされているのであろうか。フラーセンはある科学理論の中には書き込まれるべき空白が残されていると主張する。そのような空白を推測される仮説的な答えで埋め、そしてその可能性をテストするのではなく「もしもその理論が経験的に十全であるならばその空白はどのように埋められるべきか、を示すような実験」が必要だという。B.C.ファン=フラーセン1986 p143

そして構成的経験論での実験とは次のように定義されている。

「それまでに、展開された限りでの理論の経験的十全性のテストとして、および、空白を埋めること。つまり、その理論の構築をさらに続けてゆくための、すなわち理論を完成してゆくための案内役として、である」(B.C.ファン=フラーセン1986 p141

確かに新規の現象へと至るような理論構築の過程を強調するではなく、それまでに、展開された限りでの理論についての言及にとどまっている。これに対して戸田山は以下のようにフラーセンを批判している。

「一つ一つの実験は、観察可能な現象を救うための理論の空白を埋める作業として理解できるかもしれないが、これらの実験の積み重ねによって得られる信念は実在論的に解釈する他はないように思われる」(戸田山和久2015 p145)

ただ、僕は研究者という立場での理論構築という視点で立つ限り実在論をとるよりほかないように思えるが、科学が世間一般に解釈されうるときはこの限りではないと思うのだ。
構成主義的経験論とはなんなのか、これは戸田山和久さんご自身が述べているように、科学に対する視点の取り方を変えることを促しているといことなのだ。構成的経験主義が実在論を批判するにあたり、悲観的帰納法も決定不全も用いていないのは

これが、恐らく代替的な科学感の提案というかたちをとっていることの根底にある
(戸田山和久 2015 p165)

これまでの科学に対する新たな視点の導入は科学を実際に解釈し、日常生活の営みをより豊かにするために、ただただ経験的に十全であれば良いように思えるし、むしろそのことのほうが生きるうえでしばしば重要だ。

概念は理論を含んでおり、理論なしには考えられないものである。しかし、理論的な世界像へ没入は、その存在論的含意を「括弧に入れる」ことを妨げるものではない
(B.C.ファン・フラーセン1986 p153)

理論は必要であるが、理論的な世界を解釈するうえで、少なくともその理論そのものの真偽にコミットする必要はない。そして、それでも科学的世界像は進歩し続ける。

われわれは以前の世界像に帰ることはできない。なぜなら、実験的に発見された非常に多くのものが、以前の科学にはおさまらないからである。しかし、これは現在の世界像が真である、ということを擁護する議論ではなく、経験的に十全である、という事を擁護する議論である。(B.C.ファン・フラーセン1986 p155)




[1] 「科学的世界像」邦訳ではconstructive empiricismを構成主義的経験論と訳しているため、本稿では引用をの除き構成主義的経験論で統一する。
[2] 呼び捨てにするなんて大変恐縮であるが、多くの哲学書の引用方式にならい、このように記述させていただく。
[3] 伊勢田哲 Nagoya Journal of Philosophy vol. 42005年、35-50
[4] B.C.ファン・フラーセン1986 p47参照

2015年8月31日月曜日

哲学入門 (ちくま新書)




どんな生き方に価値があるのか問うべきではない。そう、どんな生き方にも無条件の価値があるはずだ。これは僕が、本当に大事にしている言葉だ。

本来の自分、本来的な生き方。どんな生き方に価値があるのか。そう問うのをやめよ。価値は作りだすことはおそらく、同時に価値を抹消すること。生き方を規定するものを、外部想定してはいけない。規定されなかった生き方に出会うという選択肢がなくなってしまう。様々な選択肢があっていい。“あり方”は一つじゃない。自分探しなんてやめてしまえ。そんなことよりも、もっと重要なことがある。そう、今関心のないところにこそ大切なものがあるのだ。

これは僕の生き方の基本的なところを規定する行動原理と言えるかもしれない。やや大げさだろうか。でも僕はこの言葉たちに何度も救われた。

本当の自分とは何だろうか。本当の自分を探すことに大きな意味はない。しかし、自分らしく生きることの実感は人を豊かな気持ちにさせることは確かだ。生きる意味とは何だろうか。そもそも、この唯物的自然世界に「意味」なるものは存在するのだろうか。この世界のあらゆる現象が物理的因果法則の上に成り立つのなら、僕たちの行動に意味や自由など存在しないことになる。世界は因果法則のもとに一方的に決定されてしまう。

だがしかし、僕たちは自由を日々の生活の中で実感することがある。どこか遠くへ旅をして、非日常的な世界に身を向き、じっと自分と向き合う。なんだか本来の自分に会えたように感じるのは現象として疑いなく確信できるという経験はあるだろう。

「人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点をとりえてしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している。」

「今自分らしく生きている」と思える時は確かにある。その充実感を求めたいと思うのは、人間の生きる意味とは何か、その目的的行為に他ならないのではないか。たとえそれがすべての物理的因果法則であらかじめ決定してようとも、僕たちは自由や意味を感じ、それを目指して生きるということができるだろう。

どんな人生も一様に生きる価値があるというのは、時に残酷かもしれない。人生の価値を高めよう、そう多くの人が思うのは確かだ。「人生が生きるに値するかどうかは度合いがある」
これは少なくとも他者により決定されるものではあっつてはならないが、自己が感じうる現象としては間違いなく確信できるものかもしれない。


カントもデカルトも、ニーチェもハイデガーもフッサールも主役として出てこない哲学入門。戸田山ワールド全開の本書は非常に親しみやすい文体だが、語られていることはあまりにも壮大だ。

2015年5月8日金曜日

ハイデガー「存在と時間」入門 (講談社学術文庫)




それでも世界が続くのなら、闇とともに生きよう
~ハイデガー「存在と時間」 忘備録~

マルティン・ハイデガーの「存在と時間」、20世紀最大の哲学書だなんていうから、原書はもちろんその翻訳にも手が出ない。いつも通り、入門書である。ただこの本、入門書といえど、かなり難解と言わざるを得ず、一度読んでもなにやらとてつもなくものすごいことが書いてある気がするのだが、その意味が全く分からない。なのでもう一度読み返しながらメモを取ることにした。そのメモをまとめて文章にしたものが以下である。まだ途中ではあるが、忘備録として残しておく。

ハイデガーは世界内に存在する存在者の中でも人間をとくに「現存在」という述語で表現する。僕なりに現存在とはなにか、簡単にまとめると、人間はなにかに規定される本質的性格を有さず、常に新たな自身で在る可能的存在であり、己の存在に現に関わりながらいかに態度をとるべきかを常に迫られる存在者のことであろう。そして、その存在の仕方を実存と言うわけだ。

現存在は可能的存在であるがゆえに、自身のあるべき道を選択、獲得、喪失を決断することができるわけだが、実はこの在り方の選択可能性が現存在の本来性、非本来性という二つの在り方を生み出している。本来性とはあらゆる苦悩を受け入れ、それに向き合い生きて行く、なかなか精神的に強い生き方、非本来性とは、苦悩から逃避し、現実逃避状態で生活するイメージ。苦悩とは最終的に死と向き合うというような話になるわけだ。

ハイデガーの客観的な世界認識の特徴として、世界が主観に対して外的に存在する客体であるのではなく、現存在(主観)は世界を世界として認識、把握するより以前に、常に世界の中に投入されており、このように世界内存在こそが、認識というシステムを駆動して行くと言っている。どういう事か…。

僕たちは通常、生きている日常空間に存在する事物的存在者の役割をあらかじめ了解しているという仕方で生活している。生活の中で、バスという乗り物のあらゆる構造を知り、理解せずとも、バスに乗り仕事へ行くような生活を当たり前にしているわけだ。認識作用に先立ち常に存在者と関わり在る存在の仕方。これをハイデガーは現存在の根本的な機構として「世界内存在」と呼んだんだ!なんかかっこいいね。

根源的な世界内存在とは、道具的存在者と関わりあいつつ在る存在であり、事物的存在者を意識しているわけではない。このような世界内存在を世界内部的な存在者との「交渉」と呼んだ。この交渉というあり方がハイデガーの思想の中でも最も重要だと僕が思う「配慮的な気遣い」という仕方である。

道具的存在者の存在のあり方は配慮的に気遣われるのであり、そのような仕方で切り離されてしまった際には単なる事物的存在者に過ぎなくなるということだ。これはハイデガーの思想の中でも非常に重要な部分だと僕は思う。ハンマーの例が取り上げられているが、通常、ハンマーが使用されている状態において、ハンマーは道具的存在者として存在していることに違和感はない。しかし、ハンマーが道端に落っこちていて、ぼんやりと眺められている状態であれば、ハンマーは単に事物的存在者として転がっているだけである。

道具的存在者とか事物的存在者というのは、それぞれの存在者に固有の存在様式ではなく、ある存在者により、道具的存在者となることもあれば、事物的存在者にもなりうるということだ。ただの石ころでさえも、ハンマーの代わりとして道具的存在者になりうる。

要するに道具的存在者とは配慮的に気遣われるもの一般を表す。そして道具との「交渉」とうあり方は「何かをするため」的な指示に従いなされてゆく。くぎを打つためにハンマーを打つ。のように。このように指示の多様性に適応することを導く作用をハイデガーは「配視」と呼んだ。また、現存在が当たり前のように「道具」を使用できるのは、道具的存在者の「適所性」の全連関を既に了解しており、この先行了解が適切な道具的存在者を指示することに他ならない。このような指示を与える、先行的な了解作用が行われている場が「世界」と呼ばれるものなのだ。

人間は自分の関心を、日常世界に存在するそれぞれの事物に向け、さらに事物を道具的に利用できるのは、その事物の基本的な使い道を、既に了解しているからなのだ。解釈は全くの無から始まるのではなく、先入見に基づく。まず存在という事実があり、それが知られて行くのであり、まず知があってそれが無からなにかを構成するのではない。

そして大事なのは道具的存在者が道具として機能すればするほど、僕らから「遠ざかって」しまうということだ。眼鏡をかけて、遠くの景色を楽しんでいる人はその眼鏡という道具的存在者自体を間近で見ることはできないであろう…ということだ。

現存在が他の人々との共在性に投入しているとき、言うなれば多数の流行的価値観に埋没している状態において現存在は本来的に自己自身として存在しておらず、他の人々の意向に支配されている。この他の人々を「世人」と呼ぶ。現存在はこのような状況において、自己の不断の自立性を失い自己の不断の非自立性という仕方で存在する。そしてこの世人という在り方は現存在の根元的な存在様式であるのだ。言うなれば人間は周りにながされ、自分自身で主体的に決断するというあり方から遠ざかっている状態であると、まずはそのような状態がデフォルトなのだと言っているのだと思う。

石も植物も動物も世界の内部で、他の存在者に出会いそれらを理解するという可能性は閉ざされているが、人間(現存在)だけが、世界を基盤としてそのなかで存在者に出会い存在者をかくかくしかじかのものと理解し開示することができる。それだけでなく、現存在はおのれの存在を漠善ながらも理解しそれに対する態度をとっている、おのれの存在に対して開かれている状態である。このことを現存在の開示性と呼ぶ。

近代認識論では気分や感情は客観化、対象化、数量化できないとかんがえられ、あまり重視されてこなかったわけだけど、存在論的には非常に重要な概念なのである。この気分という述語をハイデガーは情状性と呼ぶ。気分が露にする存在の重圧感は現存在が実存する限り逃れることができない。

なにやら小難しいはなしだが、簡単にいえば、例えばイライラしている気分だとすると、別にイライラしようとしてそんな気分になった訳じゃなく、すでに気がついたらイライラしているわけだ。気分は人間の意志を越えて、自分がすでにある状況に投げ出されていることを示しており、この状態を被投性と呼ぶ。イライラした気分は自分と回りの世界への適切な気遣いのあり方を見失う。気分はいつの間にか人間を襲っているのだ!この情状性を了解し、解釈し他者へ向けて話すことが語りと呼ばれる。

語りとは了解されうるもの、すなわち了解可能性の分節化に他ならない。それは解釈が作り出すのではなく、解釈に先立つ。解釈以前に発動し、了解内容に意味という切れ目をいれ、分節可能なものを提示し可視化することで、解釈に意義を提供する働きを語りと呼ぶ。 世界内存在の情状的な了解可能性が、語りとしておのれを言表する。言葉があり、それを組み合わせて語りがあるのではなく、語りが了解可能な意義を作り上げるからこそ、世界のうちで言語化され表明されるのだ。

日常言語は詩人のようにオリジナリティあふれたものじゃなく、すなわち了解内容を完全にその始原から分節化して言表するのではなく、世間的な常識的解釈パターンに依拠しながらそれを利用している。日常的な現存在はこのように平均的な了解の型にゆだねられているという。 現存在は本来的な自己存在できることとしてのおのれ自身から、さしあたり常に脱落しており、世界に頽落しているとハイデガーは言う。頽落とは実存の非本来性を表しているわけだが、世界内存在はそのもの自体で誘惑的なのであり、現存在は空談というあり方の魅力に弱い。

本来的なあり方が理想的な形態であるとか、本質であるとかそういう事はハイデガーは述べていない。非本来的なあり方と本来的なあり方は相互転換の関係であり、頽落はあくまで日常性というあり方そのものである。しかも僕らはこの非本来的日常的あり方ですら生き生きと感じているわけだ。

「不気味さのほうが安らぎよりも根源的な現象である」
不安のさなかにおかれた世界内存在としての現存在こそが最も根源的なのだ 。 不安は現存在を頽落から連れ戻す契機となる。 本来の自分を取り戻すには安心に甘んじるのではなく、むしろ不安の中にこそ重要なものがある。

日常性から非日常性へ、視線のシフト。現存在の存在の意味は「時間性」によって解き明かされるわけだ。未だ終わりに到達していない現存在が生の真っただ中でおのれの死へとさきがけ、おのれの可能性の全体へと意識的、自覚的に態度をとるさまを全体存在という。現存在は「死へとかかわる存在」。そして、死へとかかわる現存在の存在は気遣いにより構造化されている。

現存在は通常、死へとかかわる非本来的なあり方へ頽落しているわけだが、死へとかかわる本来的な存在は先駆と呼ばれる。先駆足り得るためには、「良心」を持とうと意志することが必要なのである。

ではまず、ハイデガーは「死」をどのように考えたのだろうか。人間にとって死とは何だろうか。

死という現存在各自の終わりは落命から隔たっている。

どういう事か…

落命(いわゆる人間の死)は他者の死亡事例に関する経験から、引き出された事物的に出来するもろもろの死亡事例であり、一般的な「知識」に過ぎない。そして、死は未了という性格を帯びている。未了とはおよそまだ存在せず、しかも現存在がおのれに先んじてという仕方でおのれ自身のほうからそれに成らねばならない当のものである。いうなれば死は最極限の未了ということだ。

死はあらかじめ潜んでいて、突如僕たちに襲い掛かるものではない。死は人の外部にあるのではなく、現存在の内部で胎を結んでおり、そのつど不断に現存在の中へと立ち現れ、僕らを脅かす。死は、現存在の存在可能性に他ならない。現存在は存在している限り未了である。果物が熟して完熟(完成形)になるのとは異なり、現存在は「完成」なくして終わる。

大事なのは死という最極限の未了はいつ訪れるかわからないということだ。すべての魅了が最極限の未了になるうる可能性を秘めている。すなわち死はあらゆる瞬間に可能となる。死とは現存在の固有な、没交渉的な、追い越しえない、確実な、無規定的な可能性と表現される。このような死、ああ死は、現存在が存在する限り、現存在が引き受ける一つの存在の仕方なのだ。

「人はいつか死亡するが、しかし当分はまだ死ぬことはない」という空談が、人の日常的な死へとかかわる非本来的な姿(頽落している姿)を浮き彫りにさせる。死の与える衝撃を「人は死ぬものだ」という曖昧性な出来事へと変換することで現存在のおのれの死から逃避することへと誘惑する。そこから抜け出し、おのれを取り戻すために如何にすべきか。

現存在を「おのれ自身へと連れ戻される」その契機が良心である。良心はその性格上、呼び声と呼ばれる。世界内に頽落している非本来的な現存在、その現存在が呼び声に射当てられるという仕方で本来的なおのれを取り戻す契機となる。

具体的にみていこう。被投性が浮き彫りとなる不安という根本情状性、この不安が呼び声を気分付ける。現存在は、呼び声を介して不安という気分を表明するわけだ。そして、現存在が呼び声を真正面から聞き取るとき、そこに良心を持とうと意志することが生起する。これが、本来的な存在を選択するということに他ならない。

良心の呼び声は現存在を被投性のうちえと呼び返しその非力さを開示する。その非力さを真正に引き受けることができるのは不安の気分の内においてであり、良心を持とうと意志することは不安を受け入れようとする用意になる。本来的な開示性、現存在の本来的な存在をあらためて決意性という述語で表現する 。

決意性か非決意性かという二者択一を迫られるとき、現存在は常に頽落への誘惑にさらされる。この決意性に固有な選択するという仕方の厳しさが最高潮に達するのが、現存在が無規定的に確実な死への可能のうちへと先駆し、選択そのものが不可能になってしまう時が不断に切迫していることに気づく時である

「死への先駆と決意性は連関している 」

時間性は先駆的決意性という現象に即して経験される。時間性とは現存在の存在の意味である。時間性という現象は非本来的な現存在には体験せられ得ない。

時間は実態的なものとして存在するのではなく、おのれの実存に関わりつつ、おのずから生成される。これを時熟と呼ぶ。ハイデガーの時間論は過去を既在、現在を現成化、未来を到来と呼び変える。到来こそがおのれがどうありうるかという可能性を表し現存在の本来的なあり方を提示する。

本来的な到来は先駆と規定され、非本来的な到来は予期と名付けられる。また本来的な現在を瞬視、非本来的な現在を現成化と呼ぶ。瞬視とは、おのれの本来的到来にもとづきつつ、また既在性を引き受けながらおのれの状況を偽りなく目差し、その方へと決意しつつ移行し突き破ろうとする構えのことだ。

ハイデガーの言う時間性とは、おのれへと向かって(到来)、何々のほうへ戻って(既在性)、世界内部的存在者を出会わしめる(現在)という三脱自態の統一のことである。

歴史的な事物を意識するさい、普通は過去を重視する。過去とはなにか。過去を過去たらしめるのは世界である。世界は世界内存在としての現存在というあり方においてのみ実存するというわけだが、ある事物に過去が宿るのではなく、その事物が帰属していた世界が過去となっているわけだ。

現存在は死へと先駆しつつ(到来)、おのれの本来的な可能性を伝承された遺産のうち(あるいは広義の過去か)から決意しつつ選びとるがゆえにのみ、幸運や不運に出会いうる 。この決意性のうちにおける、現存在の生起を宿命という。端的に言えば、宿命とは本来的なの存在可能性を具体的な目標として見いだすことであり、その目標をめがけて生きること、それこそが人間本来のあり方であるというのだ。死を紛らわすのではなく、不安から目をそらさず、僕たちに世界が続く限り、闇をしか見つめ、おのれの本来のあり方を取り戻せ!



2015年1月19日月曜日

動的平衡





福岡伸一  ()

ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer18981941年)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者です。安定同位体元素を用いて生体内での代謝を追跡する手法を見出しました。生物が摂取する食物に含まれる分子が瞬く間に身体組織へ移行し、そしてその次の瞬間には体外へ排出されていることを観察し、生命現象はそのような流れの中でこそ存在しているという事を明らかにしたのです。

シェーンハイマーは窒素を放射性同位元素でマーキングしたロイシンを含むエサを成ネズミに与えました。ロイシンは体に取り込まれやがて、尿中排泄されるだろうと誰もが考えていました。しかし取り込まれた窒素は、そのまま尿中には排泄されることなく,体内に存在する蛋白質に取り込まれ、全身の組織へと分散されていたのです。そしてこの間、ネズミの体重は大きく変化しませんでした。すなわち、タンパクの合成と分解が同時的にしかも別々の場所で行われていたという事です。このように合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とは、そのバランスの上に成り立つ「効果」であると著者は述べます。生命現象とは、因果関係ではなくただ平衡状態があるに過ぎないと。

エントロピー増大の法則、まさにこの世の中の縮図を表した法則のように思います。この世のあらゆるものはこの法則にあがらう事が許されない。だがしかし唯一生命だけはこの法則に必死にあがらっているように思います。エントロピーとは一言で言えば乱雑さを示す指標で、秩序あるものから無秩序なものへ向かうほど大きくなります。秩序ある状態から無秩序な状態へ、世の中は基本的にはそのような仕方で動いていきます。すなわち形あるものはいつか壊れていきます。

熱湯を氷水に入れると、熱湯の温度はどんどん下がり、氷水の温度は上昇し、やがて室温と同じ温度になり変化が止まります。この見かけ上変化が止まった状態を平衡状態といます。高校化学を思い出します。

ABC 

化合物Aと化合物Bを反応させると化合物Cになる。これは不可逆反応です。エントロピー増大の法則は基本的には不可逆反応でしょう。ABという秩序ある分け方も、時間の流れとともにその境目があいまいになりCになってしまう。

ABC

これは平衡状態を示します。実験室の試験管の中では反応が止まったように見える。だけれども実際はものすごいスピードでABCABCという反応が繰り返されている。

生物も例外なくこのエントロピー増大の法則の影響を受けます。しかし生物はエントロピー増加による破壊を受ける前に自身を破壊し再構成するのです。これをすなわち動的平衡と呼ぶのです。エントロピー増大の法則にあがらう唯一の方法は,システムの耐久性と構造を強化することではなく,むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのだと著者は述べます。
そして「生きている」という、この実感はどこから来るのか。それはこの生命体を構成している物質の破壊と再生の繰り返し、すなわち動的平衡の「効果」であると福岡伸一先生は仰るわけです。動的平衡はいわば生命がエントロピー増大の法則にあがらうために採用したシステムにほかならないわけです。

「すべてのシステムは、摩耗し、参加し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピー=乱雑さは、常に増大する。このことをあらかじめ織り込み、エントロピー増大の法則が秩序を壊すよりも先回りして自らを壊し、そして再構成する。生物が採用しているこの自転車操業的なあり方、これが動的平衡である」 (動的平衡2 P243

さらに生命というよりは、地球全体が動的平衡のシステムで動いているのです。動物が吐き出した二酸化炭素は大気中に放出された後、大気の構成成分となり、そしてやがて植物に取り込まれる。また大気中の窒素は一部の細菌の働きで植物に取り込まれ(窒素固定)やがてそれは動物に捕食され、排泄されていく。そうした物質の流れのなかで生命現象は営まれている。


高校生物程度の知識があれば、ほかに高度な知識は不要です。本当にわかりやすく、生命現象の根源的なあり方に迫る、そんな本です。是非2冊続けて読んでみてはいかがでしょうか。

2015年1月9日金曜日

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


僕はもともと歴史が好きなだけで、仏教や浄土真宗、親鸞については全くの素人ですから、これから述べる話はかなり的外れ場部分も多いかと思います。僕には親鸞の思想を理解するにはまだまだ思索が足りず、どうかご容赦願いたいところですが、少しでもその考え方をなぞることができたように思う部分をまとめたいと思います。

なぜそこまでして、親鸞なのかと言う感じですが、親鸞という人物が難しいと僕が感じるのは、本人自身が明確なメッセージを発信していないという事であり、それにもかかわらず、本人自身から自然とあふれ出る思想そのものが魅力的だという事なんです。その魅力の一端をうまく言語化できたらいいなと思います。

[親鸞の思想背景]
そもそも古代仏教って、基本的には「国営」だったわけじゃないですか。それが鎌倉期に一気に大衆化した。語弊があるかな。でも日本が世界に誇れる「文化」って鎌倉仏教じゃないの?というくらい日本人の思想に大きな影響を与えています。浄土真宗というのは親鸞によって鎌倉時代に生み出された仏教の宗旨のひとつですけれど、日本最大の宗派となっていますよね。日本人との親和性が極めて高いというよりほかないこの思想構造はなかなか興味深いのです。

親鸞の思想が形成される背景として当時の危機的状況を込みで考える必要があります。加えて大衆の多くに加持祈祷を旨とする天台・真言が民衆を救うものではないという思考が共有されていた。親鸞自身が経験したであろう文応元年前後の大飢饉により途方もない数の死者を目の当たりにしたという事、武士の台頭により各地で争いが多発していた時代、そういった背景が、その思想に大きな影響を与えているのだろうかと思います。
目の前の一人を救う、それが「善」だと思うな。善悪について親鸞は、わからないよと言う、感じで何も語っていないようですが、途方もない死者を前に浄土思想をどうリアルにつなげていくかということが親鸞の思想の根底にあったのではないかと推察します。
人間はただ不可避に促されて生きるもの。そういった現実をまざまざと見せつけられる世界に生きる人々へ。そのすべてを救うためにはいわゆる貴族宗教による加持祈祷の類で現世利益を求めることは絶望に近いほど無駄なことだと認識していたのだと思います。親鸞は常に死者を土台にして考え、その救済の思想を展開するにあたり死後の世界を根本に置いたのでしょう。

[悪人でも救われるのか]
「自分を善人だと思い込んで、正しい行いをしているつもりになっている人で”すら”救われる。自分を煩悩まみれのどうしようもない悪人であることを自覚して、仏に頼る人なら、なおさら救われるのだ。」
いわゆる「悪人正機」ですが、自分の意思や努力で善き状態を保っているのではない。決して当たり前ではないということの自覚は本当に大切なんだと思います。
親鸞いわく、「縁があれば、千人殺してしまうかもしれない。殺していないのは自分が善人だからではない。殺さないのは自由意思に基づく行為の選択ではない。」自覚したり意思で操作できるような悪などは、それほど重要ではないということかもしれません。ヒトはもっと根元的悪を抱えているのでしょう。人に為と書いて、偽りと読むように…。

また親鸞は「愚者になりて往生す」愚者になれと言うのです。愚と悪というのは限りなく非宗教的だと言うことでしょうか。
念仏さえ唱えれば浄土に行けるという誤解。これは因果ではなく、親鸞の思想のなかにある契機だということです。ここを誤解すると親鸞の思想は根底から崩れていきます。念仏を唱える事で浄土に行けるというのは自力に他ならないからです。そうではなく、宗教への執着がない愚者にこそ、救いの道があるということなのかもしれません。

[他力思想とは]
不可避的な仕方で到来するもの、それが運命と言うものです。ただ自ずから。親鸞の他力の核心はここにあると僕は考えます。自然をnatureとしてしまうと、親鸞の思想を理解するのは困難な印象です。

「じぶんのほうではからわないのを、自然と申すのです。これがすなわち他力であるのです。(歎異鈔)

また親鸞は一念、多念どちらにも偏執するなと言います。では“たった一念”でもいいのか、ということでは決してありません。絶望的に願い叶うことのない状況において、修行により何かを達成するということの不可能性が自明のこととして不可避的に自身に迫ったとき、多念により何かを達成するというのは、自力の思想に他ならないということだと思います。
そのような状況における、自力の思想では、一般の民間人すべてを救うことはできなかったんだということ、他力の思想への転換はこのあたりが背景にあったのではないかと思います。 
念仏を唱えれば唱える程救われる構造と言うのは、自分の資力や知力で何かを達成できるという構造に似ています。そもそも自分の資力や知力が絶望的にかなわない状況であれば、スタートラインにも立てない人たちがいて、そういった人たちは救えないということになります。そしてこういった人たちが当時の大多数だったわけです。僕も含め、“他力”を勘違いしている人は多いのではないでしょうか。決して単純な他人任せではないのです。
親鸞の思想、それは厳しい現実と向き合わねば理解できない思想なんだと思いました。貴族的仏教思想とは対極にあるというか、親鸞の思想は当時の人にとって本当に現実的な教理だったんだと思います。どんなにもがいても、もはや“善い”ことなんてできない世の中、あるいは状況でも、それでも救われるというのは「そんなあなたでも決して見捨てません」というメタメッセージが込められている。


今、親鸞の思想を学ぶのにどんな意味があるのか僕にはよくわかりません。ただ世の中には様々な境遇のなかで、自分の進むべき、あるいは目指したい道を閉ざされてしまうことが、不可避的にやって来ます。どんなに社会に貢献したいという熱い志があても、社会的地位、経済的問題、人間関係、時間的余裕、そういった様々な要素、これは言い訳などではなく物理的に志が達成できないことがあるんです。そういった、自分の資力や知力で善の行いを実践することが、絶望的に叶うことのない状況のなかで、「あなたの行いは何であれ、あとは任せなさい」というメッセージで救われる人は多いのではないでしょうか。

誰でもできると言うのは決して「簡単」という意味ではありません。やりたくてもできない人のためにできるシステムを作るということ。僕は親鸞から学びました。

2015年1月5日月曜日

日本霊性論 (NHK出版新書 442)

内田 樹  (), 釈 徹宗 () (NHK出版新書 442)



このブログでは、いわゆる“ですます調”を用いないで、淡々と文章を書いてきましたが、やはり僕にはなんとなく、“ですます調”のほうがしっくりくるんで、本年から文体を変えようかと思っています。

[霊性とは何か]
「霊性」なんて聞くと、僕は最初、なんだかオカルトのようなそんな印象を持ってしましました。霊性って何でしょうか。日本は本当に多様な宗教性に満ちた国ですが、組織的な特定の宗教というと、やや抵抗を覚えるような、そんな印象はないでしょうか。しかしながら日本人としての生活の中に宗教性は満ち溢れています。年が明ければ初詣に行きますし、クリスマスだって何かしらのイベントを期待するでしょうし。結婚式をチャペル様式、あるいは神前様式などで執り行う事でしょう。ハロウィンだってイベントがありますよね。日本の現代社会ではこのように多様な宗教性が習慣化している、宗教性がある意味で常識に登録されている世の中を僕らは生きているわけです。
 そもそも日本人古来の宗教性とは何でしょうか。日本の歴史を紐解く中で、古代史までさかのぼると大きな宗教性として仏教の存在は外せないでしょう。仏教公伝には諸説ありますが、僕は覚えやすいので538年(ごさんぱい)なんて暗記しています。時は奈良時代、以後平安、鎌倉に至るまで、仏教とはほぼ国営と言っても過言ではないくらい、国によって管理されてきたといえましょう。聖武天皇による国分寺、国分尼寺の建立などは国家的プロジェクトです。政治とも密接なかかわりを持っており、桓武天皇が平安京遷都と余儀なくされたのも奈良仏教(南都六宗)の影響は大きかったといえましょう。
 平安時代になると、真言密教は藤原氏を代表とする貴族たちや皇族の信仰を集め貴族仏教の様相を呈してきます。平安も末期になると、武士の台頭とともに、貴族の政治への力は弱まり、仏教は徐々に貴族から大衆への文化として移行するようになってきます。特に鎌倉時代に興起した浄土思想は法然、親鸞により大衆へ受け入れられ、当時の日本人の根本思想となっていったのではないかと僕は思います。このような宗教性は長い時間をかけて習慣化し、物の考え方を基本的なところで決定するための判断材料、いいかえれば倫理感や常識といった、原理にはなり得ないが人の基本的な思考プロセスの源泉になっていったのではないかと僕は思います。いわゆるメタ宗教とでも言うのでしょうか。このような宗教性こそを霊性というのではないか、と僕は感じました。

[宗教とは何か]
 僕は無宗教であるというのはなかなかこの現代日本においては難しい言明のように思います。僕自身は特定の宗教教団に所属していませんが、例えば日曜日は休むものだと思っていますし、食べる前にいただきますといいます。もともと日曜日というのはキリスト教の安息日ですし、食べ物を頂くという事に感謝の気持ちもあります。もちろんこれを「習慣」という事もできますが、宗教性にはもともと教義のほかに儀礼もありますから、これを習慣や思想、あるいは哲学と厳密に線引きするという事はなかなか困難に思います。本当に無宗教であればそれは原始人以下の動物ではないかとすら思うのです。古代の人間も死者を敬い、死者とともに暮らしてきました。そういう観点からすれば、現実に存在しない何かに対して畏れや敬いを意識しながら生活している宗教性と言えるのではないでしょうか。

[宗教性が必要な局面とは]
以前、どこかに書いた気もしますが、僕はお寺や神社を歩くのが大好きなんです。もともと日本史が好きだという事もありますが、歴史的なものや建築に興味があるだけじゃなくて、やはり祈りの姿勢というか、畏れの感覚というか、“恐る恐るというような振る舞い”、そういったものの感度を高めることができればな、と思うのです。
自分がいかに無力な存在であるか、改めて自分に言い聞かせることで、自身の能力を超えてこちらに向かってくるものに対して、その備えを最大限までに引き揚げ、何とかやり過ごすことができるよう、その感度のセンサーを極限まで高めたいと思うのです。

3.11では福島第一原発が津波に飲み込まれ、全電源が喪失しました。海沿いに建てられた施設。非常電源。津波の想定。原子力はそもそも人がコントロールできるものなのか。人知を超えた何かのトラブルが発生したときに何をなせばよいのか、その畏れの感度をもう少し高めることができなかったのだろうか。宗教性が必要な局面とはこういったことではなかったのか。そんなふうに感じます。


「目に見えない何かをおそれ敬うこころ」を常々意識したいと思います。