2015年8月31日月曜日

哲学入門 (ちくま新書)




どんな生き方に価値があるのか問うべきではない。そう、どんな生き方にも無条件の価値があるはずだ。これは僕が、本当に大事にしている言葉だ。

本来の自分、本来的な生き方。どんな生き方に価値があるのか。そう問うのをやめよ。価値は作りだすことはおそらく、同時に価値を抹消すること。生き方を規定するものを、外部想定してはいけない。規定されなかった生き方に出会うという選択肢がなくなってしまう。様々な選択肢があっていい。“あり方”は一つじゃない。自分探しなんてやめてしまえ。そんなことよりも、もっと重要なことがある。そう、今関心のないところにこそ大切なものがあるのだ。

これは僕の生き方の基本的なところを規定する行動原理と言えるかもしれない。やや大げさだろうか。でも僕はこの言葉たちに何度も救われた。

本当の自分とは何だろうか。本当の自分を探すことに大きな意味はない。しかし、自分らしく生きることの実感は人を豊かな気持ちにさせることは確かだ。生きる意味とは何だろうか。そもそも、この唯物的自然世界に「意味」なるものは存在するのだろうか。この世界のあらゆる現象が物理的因果法則の上に成り立つのなら、僕たちの行動に意味や自由など存在しないことになる。世界は因果法則のもとに一方的に決定されてしまう。

だがしかし、僕たちは自由を日々の生活の中で実感することがある。どこか遠くへ旅をして、非日常的な世界に身を向き、じっと自分と向き合う。なんだか本来の自分に会えたように感じるのは現象として疑いなく確信できるという経験はあるだろう。

「人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点をとりえてしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している。」

「今自分らしく生きている」と思える時は確かにある。その充実感を求めたいと思うのは、人間の生きる意味とは何か、その目的的行為に他ならないのではないか。たとえそれがすべての物理的因果法則であらかじめ決定してようとも、僕たちは自由や意味を感じ、それを目指して生きるということができるだろう。

どんな人生も一様に生きる価値があるというのは、時に残酷かもしれない。人生の価値を高めよう、そう多くの人が思うのは確かだ。「人生が生きるに値するかどうかは度合いがある」
これは少なくとも他者により決定されるものではあっつてはならないが、自己が感じうる現象としては間違いなく確信できるものかもしれない。


カントもデカルトも、ニーチェもハイデガーもフッサールも主役として出てこない哲学入門。戸田山ワールド全開の本書は非常に親しみやすい文体だが、語られていることはあまりにも壮大だ。