2015年9月11日金曜日

「科学的世界像」を読む~構成主義的経験論とは何か~

バスティアーン・コルネリス・ファン・フラーセン(Bastiaan Cornelis van Fraassen)は米国の科学哲学者である。1980年の著書『科学的世界像』(邦訳は1986年、以下本稿では、本書をB.C.ファン・フラーセン1986と表記する) において、科学的反実在論の立場から構成主義的経験論 (constructive empiricism) [1]を提唱した。

僕にはこの構成主義的経験論という考え方がものすごく腑に落ちた。本書は非常に難解である。基礎科学理論や科学史、科学哲学の基礎を有さない僕が一朝一夕に理解できるようなものではないかもしれない。しかしながら「現象を救うこと」「経験的十全性」というワードは僕の基本的な考え方にとてもフィットした。僕はこういうやり方でやりなさい、といわれるのが実はあまり好きではない。もちろんケースバイケースなのだが、やり方をどうしようが結果得られるものであれば、そのプロセスはどうでもいいじゃないか、あなたにどうこういわれる筋合いはない、というひねくれ者である。そういったひねくれ者が故に摩擦を起こすことも経験上ある。しかし医療にたずさわる仕事していて、メカニズムやプロセスとリアルな現象は分けて考えるべきだ、という事を僕はEBMから学んだ。ひねくれ者の僕にはEBMという考え方がものすごくフィットしたのである。

話がそれそうなので、戻そう。本稿はB.C.ファン・フラーセンの主著「科学的世界像」を読みながら、同時に科学哲学者で名古屋大学大学院教授の戸田山和久さんの著書「科学的実在論を擁護する」(戸田山 和久 科学的実在論を擁護する 2015/2/28 名古屋大学出版会、以下、戸田山和久2015と表記する[2])を引用しながら、構成主義的経験論について重要な部分をまとめていこうという試みである。





















[科学的実在論をめぐる論争]
構成主義的経験論の理解には科学的実在論をめぐる論争のあらましを知っておく必要が有ろう。但しここではその詳細を述べる余裕はないし、僕自身がそれを語れるほど科学哲学のバックグラウンドを有していないという大きな問題がある。それでも本書の理解に必要な科学的実在論とその批判について簡単にまとめておこう。

科学的実在論とは、科学において措定される観察不可能な事物が存在するという考え方であり、しばしば「成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真(approximately true)である」という形で定式化される[3] 要するに、理論対象が存在するという立場を科学的実在論というわけだ。B.C.ファン=フラーセンによる定義では

科学は、その諸理論において、世界がいかなるものであるかについての文字通りに真なる叙述をわれわれに与えることを目標とする。そして、一つの科学理論の承認には、それが真であるという信念が含まれる。これが科学的実在論の正しいテーゼである。(B.C.ファン・フラーセン1986 p34)

これは科学感に対する極めて常識的な態度と言えよう。様々な物理法則も実際に経験、観察不可能な理論の存在を前提としているからこそ、現象を予測しえると普通は考える。しかし、歴史的にみれば、論理実証主義をはじめ、科学的実在論は様々な批判を浴びてきた。実は科学史において「ある」と思われていた事柄が、実際には「ない」とされてきた歴史が多々ある。その代表ともいえるのが燃素(フロギストン)や熱素(カロリック)であろう。このあたりの詳細は科学史の成書に譲りたい。実在論を批判する反実在論的立場は様々なバリエーションがあるが少なくとも、本書の理解には以下の3つのテーゼを知っておく必要がある。

まず、奇跡論法に代表されるような最良の説明への推論への懐疑。そして、デュエム・クワインテーゼに代表されるような理論の決定不全によるもの。さらにラウダンの悲観的帰納法がある。デュエム=クワインテーゼとは、どんな仮説でもどんな観察からも指示される決定実験の不可能性に関する極論である。本書でファン=フラーセンが展開する概念はこのうち特に最良の説明への推論への懐疑をターゲットにしている。

フラーセンは徹底的な意見論者であり、悲観的帰納法という立場をとらない。また決定不全を認めるなら、理論T1T2のどちらが経験的に十全なのか決めてはないという事を十分に理解したうえで、構成主義的経験論を展開し、科学実在論を批判する。フラーセンは

一つの科学理論の承認に含まれる信念は、その理論が、『現象を救う』ということ、つまり観察可能なものを正しく記述する、ということだけである。(B.C.ファン・フラーセン1986 p26

と述べている。どういう事だろうか。
科学的活動とは発見するという活動ではなくむしろ構成する活動である、という私の見解、すなわち、現象に対して十全なものであるべきモデルの構成であって、観察不可能なものについての真理の発見ではない(B.C.ファン・フラーセン1986 p28)

これが構成主義的経験論の基本的な考え方と言える。すなわち観察可能なものをいかに正しく記述するか、「経験的に妥当な理論を作る」それが科学の目的であり、観察不可能な理論に対して、その真のあり方を示すことは科学の範疇ではないと主張する。

物理理論はたしかに、観察可能なものよりもずっと多くのものを記述する。しかし重要なのは経験的十全性であって、観察可能な現象を越えたところでの理論の真偽ではない。(B.C.ファン・フラーセン1986 p125)

これまでの経験主義と異なり、観察不可能な理論の実在は認めるが、それが経験的に妥当であれば(フラーセンは経験的に十全[empirically adequate]という言葉を使う)それが正しいか、正しくないかはどうでも良いという立場をとる。しかし、ここで対象の実在性について観察可能と、不可能の区別はいったいどうなっているのだ、という批判もあるだろう。

対象の実在性について、観察可能なものと不可能なものの区別は可能か、と言う問題に、フラーセンは、「恣意性の問題なしにこの問題に答えることはできない、という事は認めよう」としたうえで、その帰結として「観察可能というのは曖昧な述語だ」と述べている。そしてその曖昧性が問題となるのは「曖昧な述語を支配する論理を定式化しようとするときである」と主張する。また「曖昧な述語は、明白な事例と明白な凡例さえあれば使うことができる」として、観察可能なものと不可能な物の区別は可能だというわけである。[4]
観察可能なものと不可能なものを線引きせずに区別するという戦略でこの批判をかわす。個人的にもこの批判は本論の核心をついていないと感じる。それゆえフラーセンのとる戦略が言語哲学的には理路があまい印象はあるが、これは現象を前に人の感覚的が実感しうる感覚としては疑いのないように思える。

[構成主義的経験論がもたらすもの]
構成主義的経験論の考え方は、現象を救うことさえできれば、その理論の実在性には関知しないという立場をとるがゆえ、理論の真偽にはコミットしない。しかしそれでは科学の新たな展望は望めないのではないか、実は僕にもそう思わざるを得ない部分もあった。

「何とかして観察可能な新奇な現象を生み出そうとして科学者は努力する。そうした実験が成功した後には、構成的経験主義者は、その新しい現象を救い、理論の経験的十全性を保つために、理論に当該対象を置くことを認めるだろう。しかし、そもそもそのような新奇な現象を生み出そうとする努力はなぜなのか?」(戸田山和久 2015 p145)

これは重要な示唆であり、構成主義的経験論者への強力な反論といえよう。実在論者には「預言された対象が本当にあるのかを確かめるためだ」という答えがあるが、構成主義的経験論者にはどのような動機でわざわざ新奇な現象を生み出すかは明らかでない。この指摘はかなり痛いところだ。僕自身も科学的実在論なしに科学の新たな側面を知ることはできないと思う。戸田山は「構成的経験主義者の科学感はやはり重要なものを失っているのである。(戸田山和久2015 P147) 」と手厳しいく批判する。

構成主義的経験論で言う「実験」とはどのようなとらえ方がなされているのであろうか。フラーセンはある科学理論の中には書き込まれるべき空白が残されていると主張する。そのような空白を推測される仮説的な答えで埋め、そしてその可能性をテストするのではなく「もしもその理論が経験的に十全であるならばその空白はどのように埋められるべきか、を示すような実験」が必要だという。B.C.ファン=フラーセン1986 p143

そして構成的経験論での実験とは次のように定義されている。

「それまでに、展開された限りでの理論の経験的十全性のテストとして、および、空白を埋めること。つまり、その理論の構築をさらに続けてゆくための、すなわち理論を完成してゆくための案内役として、である」(B.C.ファン=フラーセン1986 p141

確かに新規の現象へと至るような理論構築の過程を強調するではなく、それまでに、展開された限りでの理論についての言及にとどまっている。これに対して戸田山は以下のようにフラーセンを批判している。

「一つ一つの実験は、観察可能な現象を救うための理論の空白を埋める作業として理解できるかもしれないが、これらの実験の積み重ねによって得られる信念は実在論的に解釈する他はないように思われる」(戸田山和久2015 p145)

ただ、僕は研究者という立場での理論構築という視点で立つ限り実在論をとるよりほかないように思えるが、科学が世間一般に解釈されうるときはこの限りではないと思うのだ。
構成主義的経験論とはなんなのか、これは戸田山和久さんご自身が述べているように、科学に対する視点の取り方を変えることを促しているといことなのだ。構成的経験主義が実在論を批判するにあたり、悲観的帰納法も決定不全も用いていないのは

これが、恐らく代替的な科学感の提案というかたちをとっていることの根底にある
(戸田山和久 2015 p165)

これまでの科学に対する新たな視点の導入は科学を実際に解釈し、日常生活の営みをより豊かにするために、ただただ経験的に十全であれば良いように思えるし、むしろそのことのほうが生きるうえでしばしば重要だ。

概念は理論を含んでおり、理論なしには考えられないものである。しかし、理論的な世界像へ没入は、その存在論的含意を「括弧に入れる」ことを妨げるものではない
(B.C.ファン・フラーセン1986 p153)

理論は必要であるが、理論的な世界を解釈するうえで、少なくともその理論そのものの真偽にコミットする必要はない。そして、それでも科学的世界像は進歩し続ける。

われわれは以前の世界像に帰ることはできない。なぜなら、実験的に発見された非常に多くのものが、以前の科学にはおさまらないからである。しかし、これは現在の世界像が真である、ということを擁護する議論ではなく、経験的に十全である、という事を擁護する議論である。(B.C.ファン・フラーセン1986 p155)




[1] 「科学的世界像」邦訳ではconstructive empiricismを構成主義的経験論と訳しているため、本稿では引用をの除き構成主義的経験論で統一する。
[2] 呼び捨てにするなんて大変恐縮であるが、多くの哲学書の引用方式にならい、このように記述させていただく。
[3] 伊勢田哲 Nagoya Journal of Philosophy vol. 42005年、35-50
[4] B.C.ファン・フラーセン1986 p47参照