池田 清彦 (著) (角川ソフィア文庫)
本書は生物学者池田清彦先生による生物固有の時間を捉えなおすという試みである。元本は2002年に哲学書房から発刊された『生命の形式――同一性と時間』であり、本書は構造主義生物学を提唱した著者が生命におけるシステムの同一性を、ソシュールの構造主義的な概念を軸に記述した思索をさらに発展させたものである。その内容の根幹をなすものは、カールポパーの3世界論を道具に意識と表現における同一性と時間の関係を言語化したことにあると僕は思う。
カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年~ 1994)は、イギリスの哲学者である。反証可能性を基軸とする科学的方法の提唱は非常に有名である。反証されえない理論は科学的ではない、というのがポパーの考えである。ここでは反証主義については言及しない。本書のテーマである時間と同一性はポパーの3世界論を手掛かりに展開される。
ポパーの言う3世界とは概ね以下のような分類である
(世界1)事物(物的対象)のような物理的世界
(世界2)思考過程のような主観的経験の世界
(世界3)言明それ自体の世界、すなわち表現の総体
世界3は世界2が生み出すものにもかかわらず、世界2が消滅しても世界3それ自体は存在し続けるという。
本書ではキリンを例にこのことを解説している
例えば、キリンという動物について考えてみよう。キリンという動物そのものは世界1の上にあり、キリンという表記は世界3の上にある。厳密にいうと世界3上にあるのはキリンと言う表記だけで、それは世界2を抜きにして世界1上のキリンと対応しているわけではない。人類もキリンも滅んで書物だけになってしまっても、キリンという表記は、いつかそれを解読してくれる知的生命体を待ちつつ、世界3上にあり続けるだろう。(P69)
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世界1上のキリンは不変ではありえない(キリンは生物として時間がたつにつれ年を取りやがて死にゆく)が世界3上のキリンは不変である。しかし世界3上のキリンは、キリンを見知っている僕らが思考する世界2上のキリンの同一性とは異なる。
たとえば、キリンをコトバだけでしか知らない人が、初めてキリンを見たときにそれがキリンだとわからないことは大いにあり得るのである。この人は世界3上のキリンの同一性を知っていても、キリンを同定できると言った形の同一性の形を世界2上に持っていなかったわけだ。(P70 )
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僕らは教科書やテキストのような世界3上から様々なことを学ぶが、世界1と関わることなしに、世界3上の記号のみから世界1を措定することは不可能であるにも関わらず、世界3上の言葉が、世界1を措定できると錯覚している。すなわち世界1上には世界3上のコトバによって指示できる同一性が存在するに違いないという信念を持っている。科学の錯覚体系とはまさにこのことであろう。
世界3上に存在するのはすなわち記号に他ならないわけで、本来はこれが世界2に接続することで世界1を措定できるというプロセスを経る。しかしながら歴史の教科書を勉強している時のことを思い出してほしい。
徳川家康と言う名前は教科書上に存在する記号(世界3)に過ぎない。そして僕らは世界1上の徳川家康そのものを知り得ない。にもかかわらず、僕らの思考の中(世界2)には徳川家康が確かに存在する。世界3は世界1とは独立して存在が可能なのである。すなわち実存するかしないかが問題なのではなく、大事なのは言葉の使い方により規定される同型性の問題である。これは時間を生み出さない形式であろう。コトバでしか知らないものは何であれ時間を孕まないと著者はいう。
世界2によって解読され、世界1へ接続できるようなコトバの同一性は、これとは大きく異なる。本書ではこれを「時間を孕む固有名の同一性」として定義される。例えば幼少のころより仲の良い幼馴染Aと昨年であったばかりの友人Bを考えてみよう。直近1年間においては自分とAの時間断片と自分とBの時間断片にそう大きな違いはないだろう。しかしながら10年前はどうであろうか。10年前のAを措定することはできるであろうが、Bを措定することは難しいかもしれない。人は何らかの「同一性を生み出す同一性」を認識している。時間的継続性あるカテゴリを形成している脳内のプロセスがあるのだろうか。幼いころの写真に現在の面影を感じるのはそういった同一性のカテゴリを形成する脳内のプロセスの所為であろうか。
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