2014年11月2日日曜日

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

丸山 圭三郎  () (ちくま学芸文庫)



言葉はものの名前ではない。それは表現であり、意味であると著者は言う。ソシュール言語学の入門書的な位置付けとなるだろうが、本編、約140ページの中に記述された内容は、僕の思考を180°変えるのに充分すぎるものである。『言葉とは物の概念の呼び名である』という、いわゆる常識をくつがえす。言葉を知る以前より、分類、区分された世界など存在しないのだ。この考え方、いわゆるソシュールの思想、丸山言語哲学は僕の医療との向き合い方を変えてくれた。言語学と医療については以前に少しまとめてある。

地域医療の見え方:言語学と医療

もし興味があれば、ほんの少しでも眺めてみていただけたら幸いである。

言葉と名何か。僕らが、この世界を把握して、認識し、概念化しているというのは、言葉を通して世界を分節しているからに他ならない。言葉を知る以前の現実は混沌とした連続帯がただただ拡がるのみである。言葉はこの連続帯に適当な切れ目を入れてカテゴライズしているのだ。すなわち言葉は物事の名称リストではないのである。

日本語で兄と弟という2つの言葉があるが、これはすなわち僕ら日本人は兄弟を兄という年上の存在と、弟という年下の存在に分節して思考し概念化している。一方英語ではどうだろうか。兄弟は英語ではbrotherであろう。こちらは原則的に兄と弟を区別しない。当然ながら二人の子供のがいたら双子ではない限りにおいて、どちらかが年上であり、一方は年下であるはずだ。brotherには年上と年下を区分するという仕方の意味を含まない。言葉の種類によって、その言語話者が有する認識に応じて、目の前の分類の仕方が変わるのだ。

言葉は、それが話されている社会のみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することに他なりません。(P17)

たとえば僕らが英語を学ぶとき、単に日本語に対応した英単語を覚えるという事ではないのだ。それは英語話者の視点で、世界をとらえなおすことに他ならない。

言語次第で現実の連続帯がどのように不連続化されていくかという、その区切り方自体にみられる恣意性(P124)

言葉は恣意的なものだという。動物の犬は日本語ではイヌであり、英語ではdogであり、その対応は恣意的であるという意味での恣意的だけではない。それは言語次第で言葉に含まれる意味価値の重なり方が一様ではないということだ。虹は太陽光線のスペクトルか何視化したものであり、普遍な物理現象のように思われる。

虹は日本語では7色だが英語では藍色という意味価値観 はなく、6色で表現される。リベリアの一言語であるバッサ語ではなんと二色で表現される。これは何を意味しているのだろうか。言葉は文化自体であり、思考形式に他ならないのだと思う。同じ現象や事物を、それぞれの言語社会に属する人々がどのような価値観でそれを概念してきたのか、そういった問題が垣間見える。


視点が事物を構築する。僕らはそのように構築された世界を客観認知しながら生きているが、世界は言葉が分節し概念化するのだという事を時に忘れがちである。分類やカテゴライズは極端に言えば、ある種の思想に過ぎない。この世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、言葉と言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように言葉によって切り取られる世界が変わる。

0 件のコメント:

コメントを投稿