2014年10月31日金曜日

自分ということ (ちくま学芸文庫)

木村 敏  () (ちくま学芸文庫)



自分のことは自分がよく知っているとか、自分探しの旅に出る、というようなことを聞くし、かつて僕もそのような意味において、自分を見失った、とか、自分探しの旅に出たことがある。旅に出た先で、自分なんて探しても無駄だという事に気付いた。自分という「もの」はどこを探しても見つかるものではない。そうして探している自分そのものは何なのだという事である。すなわち自分探しというような場合において、自分という「もの」を探すということは不可能だと言わざるを得ない。

本書は精神科医の木村敏先生による「あいだ」の哲学の入門書であり、その内容は3部構成で展開される。最後の3章はかなり難解であり再読が必要であろう。僕なりに理解できた1部、2部についてここではふれておこうと思う。

僕は以前に、アルツハイマー型認知症をテーマに「もの」と「こと」について簡単に言及したことがある。  日経DIオンライン:軽度のアルツハイマー型認知症にサプリメントは有効か

「もの」と「こと」の違いとは何であろうか。「もの」とはさしあたって主語や目的語のようなものだろう。たとえば、時間という「もの」、空間という「もの」、花という「もの」。これに対して「こと」とは述語を占めるものである。美しいという「こと」。人は、花という「もの」は美しい「こと」として感じているわけである。

たとえば、「この花は美しい」という「この花」というのは、もちろん「もの」ですが、これに対して「美しい」というのは美しいという「こと」でありまして、主語としての「この花というもの」に対して「美しいということ」が述語の位置にくるのですね。(P100

「もの」や「こと」、これらの存在場所をめぐるテーマが本書のもっとも肝要な部分であろうと僕は思う。「もの」というのは空間と時間の座標で規定できる場所に存在している。机という「もの」は“教室に置いてある”というような言明は可能である。それでは「こと」のほうはどこに存在するのか。机がここにあるというのは分かりやすいが、美しいという「こと」はいったいどこにあるのか。

私は、この「……ということ」としてとらえられるような述語的な意味の存在する場所、「こと」のありか、それが「あいだ」という場所なのだと思っています。たとえば「この花は美しい」という場合には、私と「この花」というモノとのあいだに「美しい」というコトがあるP103

「あいだと」とは漢字で「間」とかく。間とはある物体とある物体との「あいだ」というようなbetweenというような意味で使うことが多い。時に日本語では「我々の間」ではというような特定の集団との境界のような「あいだ」を意味することもあるし、「機が熟さない間は」というような「あいだ」を意味するようなこともある。この場合、「あいだ」がbetweenのようにどこから始まり、どこで終わるのか明確に規定するのは困難である。この意味における「あいだ」とはすなわち、機が熟するまでの時間的進行が完了するまで、というような意味が含まれている。

このように「あいだ」とは何も物体と物体の空間を埋める「空白のようなもの」という意味だけを有しているわけではない。むしろ、空白のように思えるこの間こそが重要な意味を持つのである。

本書では離人症という精神疾患を取り上げている。

離人症がじつはどういう症状になるかと言いますと、まず、いちばん多いのは、ものの存在が分からないということ。つまりこういういろいろな身のまわりのもの、あるいは景色とかそういうものが存在するという感じが分からない、ものがあるという実感がない、何かピンとこないという、そういう言い方をされる場合が多い。(P105

「ものの存在がわかならい」というこの精神疾患は非常に珍しいものではあるものの、誰しもが発症しうるといいます。

「この花は美しい」という場合において、私と「この花」というモノとのあいだに「美しい」というコトがある。私とこの花というモノのありかは、時間的、空間的に規定できるモノとして確かに存在する。この花の意味としてとらえられている「美しい」というコトは私と「この花」の間にある。離人症ではつまりこの間に存在する「こと」というものをうまくとらえることができないのではないか。「あいだ」が分からなくなるということはすなわちコトの存在場所の喪失を意味している。離人症患者では自分という「こと」が実感として感じられない。すなわち、「みずから」という感覚の欠如である。僕らが常々、自分として規定しているものはこの「みずから」という感覚に他ならない。


自分という「もの」はどこにあるのかという、最初の問いに戻りたい。自分という「もの」としてあらわされる何かがあるというのは第3者の目から客観的に見たときのみ存在しうる言明である。少なくとも自分が自己の中に自分という「もの」はこれだと、明確に掴み取れるものなど存在しない。自分とは、僕の内部にあるものではなくて、僕と世界との、人と人との「あいだ」にあるわけだ。僕たちはこの「あいだ」に存在することで、やや不安定な日常を生きている。そしてときに苦しみ、自分という「こと」を失ったり、ときに幸せを感じながら、その時と時の「あいだ」を生きているに違いない。

2014年10月29日水曜日

「生物にとって時間とは何か」(角川ソフィア文庫)

池田 清彦 () (角川ソフィア文庫)



本書は生物学者池田清彦先生による生物固有の時間を捉えなおすという試みである。元本は2002年に哲学書房から発刊された『生命の形式――同一性と時間』であり、本書は構造主義生物学を提唱した著者が生命におけるシステムの同一性を、ソシュールの構造主義的な概念を軸に記述した思索をさらに発展させたものである。その内容の根幹をなすものは、カールポパーの3世界論を道具に意識と表現における同一性と時間の関係を言語化したことにあると僕は思う。

カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper1902年~ 1994)は、イギリスの哲学者である。反証可能性を基軸とする科学的方法の提唱は非常に有名である。反証されえない理論は科学的ではない、というのがポパーの考えである。ここでは反証主義については言及しない。本書のテーマである時間と同一性はポパーの3世界論を手掛かりに展開される。

ポパーの言う3世界とは概ね以下のような分類である
(世界1)事物(物的対象)のような物理的世界
(世界2)思考過程のような主観的経験の世界
(世界3)言明それ自体の世界、すなわち表現の総体

世界3は世界2が生み出すものにもかかわらず、世界2が消滅しても世界3それ自体は存在し続けるという。

本書ではキリンを例にこのことを解説している
例えば、キリンという動物について考えてみよう。キリンという動物そのものは世界1の上にあり、キリンという表記は世界3の上にある。厳密にいうと世界3上にあるのはキリンと言う表記だけで、それは世界2を抜きにして世界1上のキリンと対応しているわけではない。人類もキリンも滅んで書物だけになってしまっても、キリンという表記は、いつかそれを解読してくれる知的生命体を待ちつつ、世界3上にあり続けるだろう。(P69

世界1上のキリンは不変ではありえない(キリンは生物として時間がたつにつれ年を取りやがて死にゆく)が世界3上のキリンは不変である。しかし世界3上のキリンは、キリンを見知っている僕らが思考する世界2上のキリンの同一性とは異なる。

たとえば、キリンをコトバだけでしか知らない人が、初めてキリンを見たときにそれがキリンだとわからないことは大いにあり得るのである。この人は世界3上のキリンの同一性を知っていても、キリンを同定できると言った形の同一性の形を世界2上に持っていなかったわけだ。(P70

僕らは教科書やテキストのような世界3上から様々なことを学ぶが、世界1と関わることなしに、世界3上の記号のみから世界1を措定することは不可能であるにも関わらず、世界3上の言葉が、世界1を措定できると錯覚している。すなわち世界1上には世界3上のコトバによって指示できる同一性が存在するに違いないという信念を持っている。科学の錯覚体系とはまさにこのことであろう。
世界3上に存在するのはすなわち記号に他ならないわけで、本来はこれが世界2に接続することで世界1を措定できるというプロセスを経る。しかしながら歴史の教科書を勉強している時のことを思い出してほしい。

徳川家康と言う名前は教科書上に存在する記号(世界3)に過ぎない。そして僕らは世界1上の徳川家康そのものを知り得ない。にもかかわらず、僕らの思考の中(世界2)には徳川家康が確かに存在する。世界3は世界1とは独立して存在が可能なのである。すなわち実存するかしないかが問題なのではなく、大事なのは言葉の使い方により規定される同型性の問題である。これは時間を生み出さない形式であろう。コトバでしか知らないものは何であれ時間を孕まないと著者はいう。

世界2によって解読され、世界1へ接続できるようなコトバの同一性は、これとは大きく異なる。本書ではこれを「時間を孕む固有名の同一性」として定義される。例えば幼少のころより仲の良い幼馴染Aと昨年であったばかりの友人Bを考えてみよう。直近1年間においては自分とAの時間断片と自分とBの時間断片にそう大きな違いはないだろう。しかしながら10年前はどうであろうか。10年前のAを措定することはできるであろうが、Bを措定することは難しいかもしれない。人は何らかの「同一性を生み出す同一性」を認識している。時間的継続性あるカテゴリを形成している脳内のプロセスがあるのだろうか。幼いころの写真に現在の面影を感じるのはそういった同一性のカテゴリを形成する脳内のプロセスの所為であろうか。

「時間を孕む固有名の同一性」と言うのは非常に重要なポイントである。化学・物理学的な同一性を規定する化学法則や物理法則とは対極的に、生命に内在する同一性とは時間を孕むものである。例えば癌という物の同一性を考えてみよう。胃がんは生命に内在する一種の同一性により措定されたもので時間を孕む変なるものである。変なるものとは進行し、やがて転移し、人を死に至らしめることからも自明のことのように思える。すなわち胃がんとは変なるものとしてはじめて胃がんたり得るのである。不変の同一性を保つのであればそれはもはや胃がんではない。また生命にとって重要な「生き死に」に関わるような変化をなさなければ、それも胃がんとは言えないかもしれない。このように胃がんという同一性を考えるうえでは時間を孕むという側面が非常に大事なわけだ。極端な話、それにより、治療するかしないかが分かれる。本来はそうあるはずである。言い換えれば癌は予後を込みに考えることなしに取り扱うことができない。現代医学では胃癌はモノではなくコトとして定義されており、時間の概念を孕まない。世界3上の胃がんが世界2により解読され世界1に接続された時点で、本来は時間を生み出す。だがしかし、胃がんは本来時間を生み出す形式にもかかわらず、時間を排除した定義付けがなされているのである。これは何も胃がんに限ったことではない。たとえば「高血圧」という病名は本来「血圧がやや高く、その後のあなたは脳卒中がちょっと起きやすい病」という定義をすべきで薬物治療はそういった病名が付いた人のみ開始されるべきなのだ。高血圧や糖尿病と言った慢性疾患を初めとする、およそ病名と呼ばれるようなものは時間を生み出す形式であると僕は考えている。

future landscapes

このブログを始めるにあたり、簡単にではありますが、その趣旨をまとめておこうかと思います。

このブログは、簡単に言えば僕が読んだ本から受けた示唆を言語化し記述していくというものです。いうなれば単なる感想文にほかなりません。印象的な文体や失いたくな言葉の数々を、ここに残していけたらと考えています。

僕の本職は薬剤師です。普段読む本は、その多くが薬学、医学関連の専門書ですが、その合間に読んだ一般書を中心に取り上げたいと考えています。

小学校5年生の時、ドイツの児童文学作家であるミヒャエル・エンデの「モモ」という本に出会い、夢中で読んで以来、本が好きになりました。薬学部へ行こうと思ったのも東北大学薬学部ご出身の瀬名秀明さんの小説「パラサイト・イブ」がきっかけの一つではあります。本との出会いは時にヒトが進むべき道を大きく変えていきます。

僕にとって本を読むという事は、コトバを得る、そんな感覚に近いと思います。いまだ自分が出会っていない、物の見方、考え方、そんな混沌とした何もない世界を、コトバという枠組みが、秩序ある世界に編み上げていく。本を読み、整理されていく思考は、まるで砂漠の何もない砂地に、きれいな模様を描き出すように、世界に彩を加えてくれます。読書とはさしあたってそのようなことです。

魅力的な文体、あるいは僕の心に響くメタメッセージ、そういった「文法」をremarkしたい。それがいつまでも消え去らないように、僕の思考の中に存在し続けてほしい。本は僕の未来、その景色そのもの。future landscapes


そんな本と思考をつなぐブログにしたいと考えています。