2014年11月17日月曜日

街場の文体論

内田樹 () 



本書は神戸女学院大学での内田樹先生の最終講義「クリエイティブライティング」を書籍したものである。僕らが行う言語活動とは何か、またそれを駆動しているものとは何か、伝わる言語とは何か、届く言葉とは何か。

[言葉を届けたい]
伝えたい思い、それがどこまで届くのか、多くの場合「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が優先される世の中だ。言葉がどれほど伝わるのか、その強度は発信者の社会的立場の関数であると、自分自身の経験からも僕はそう考えていた。テレビドラマでも有名なセリフがある。「正しいことをしたければ偉くなれ」と。

言語における創造性は読み手に対する懇請の強度の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くこと願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。(P16

でも僕はそういった構造そのものに挑戦していきたい。伝えたい思い、その願いの強さが駆動する言語の創造性、すなわち生成的な言語の中に、前代未聞な事であってもリーダブルな文章を書けるようになりたいと、そう思う。そしてその宛先は誰か、読み手に対する敬意を忘れたくない。その宛先を限定するような内向きの文章も時に必要だ。しかしながら僕はどちらかといえば、常に外向きでいたい。
アウトサイダーにしか書けない文体があると思う。対象に対する距離感が書き手と読者で同じところにある、そういったことが誰にでもわかるような言葉で世界を言語化できる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」はある意味、インサイダーストーリーである。なぜなら翻訳が存在しない。坂の上の雲は僕ら日本人であるがゆえに、物語に共感できるのである。その根底にある基本的な背景を全国民が共有しているからに他ならない。
インサイダーが共有している、彼らにとって自明なことはあらためて語られるということが少ない。しかしながら、そういった自明なことを込みにしないと、共感できないストーリーがある。だからアウトサイダーにとってはそのようなストーリーが全く共感できない。僕は薬剤師ではあるが、薬学領域においてアウトサイダーである、そういう視点も大事だろうと思っている。

ある分野の学問をして、特殊な技能や知識を得た。それを専門家同士で「どっちができるか」「どっちがたくさん知っているか」を競うことで時間を潰すよりも、そういう知識や技能を持ち合わせていない人たちの利用可能なかたちにすることも学問の大切な仕事ではないか(P273

イノベイティブな領域の知的活動は本質的に協同的なものである。誰にとっても伝わる仕方で言語活動を想像したいと僕は思う。

言語は、発語の場に立ち会う他者の数が多ければ多いほどより言語的に活発に機能する(P28

誰に伝えるのか、そういった他者の想定なしに言語活動を営むことは、なかなかに困難である。言葉を作り出すとは、自身の内なる他者との共同作業である。どのような人に届けたいのか、その宛先となる他者の想定の仕方次第で、届くメッセージの範囲が変わる、そんな気がする。

[言語化するという事]
僕たちは別に「すでに知っていること」を書いているわけじゃありません。書きながら、自分が何を言いたいのか、何を知っているのかを発見するんです。書いてみないと、自分が何を書けるのか、何を知っているわからない。順序が逆転しているんです(P41

ものを書くというのは何かが来るのを待つということ。ある種の気流や水脈のような流れをつかむことであると著者は言う。この世に存在するテクストはすでに出尽くされている。

問題は、「流れ」をつかむことなんです。それは書き手が作り出すものじゃない。書き手はそれを「つかまえる」だけなんです(P42

どんなに世界的に評価された文学作品にも、実は構造が類似した先行作品がある。そういった脈々と続く文体の系譜をつかむことは、熟練した作家にしかできない。物を書くというのは、この流れを生み出すのではなく、つかむことである。

つまり、僕たちが文を書いているときに、「今書いている文字」が「これから書かれる文字」を導きだすというよりはむしろ、「これから書かれるはずの文字」が「今書かれている文字」を呼び起こしている。いわば弓で遠くの的を射るようなしかたで言葉は連なっている(P93

あらかじめ用意した“原稿”の中に生成的な言語活動は存在しないと僕は思う。これは僕自身の経験からそう確信するものである。

不思議なことですが、「未来のある時点で、すでに仕事を終えている自分」という前未来的な幻想に同化しないと、「今なすべき仕事」ができない。人間の身体って、そういうふうにできているんです。(P93

自転車でカーブを曲がるときに僕らはすでに曲がりきった自分を想定している。そうじゃなければ、カーブを曲がることはできない。このように目的指向的にものごとが生起することをストカスティックなプロセスという。

それはまだ実現していない「的」として意識もされていない。そこに「矢」が的中したことによって、事後的に「そこに的があった」ことがわかるようなしかたで「的」は存在している(P94

何かを言語化する時、そのコンテンツそのものを具体的にイメージできているわけではない。言語化と同時的にコンテンツが生成されるのであると僕は感じることがある。特に他者との対話の中で、思考がものすごくクリアになるときがある。こういうことは一人でかんがえて文章を書いていても決して遭遇しえないことなのである。

見たことのない景色、経験したことのない感動は、まさにその欠落感ゆえに、僕たちの言語的成熟を促します(P239

まず用法が先行すると、それを埋める身体実感を探しながら生きると。容れ物に見合う中身を獲得しなければならないという成熟に向かう圧を常に感じていると著者は言う。たとえば、自分の思考や概念がクオリアとしてはあるけれど、一般化が可能な言語として分節できていないことがある。いうなれば「のど元まで出かかってんのに」という状態である。その欠落感をどう分節すればよいのか、そういった思考プロセスが、言語的成熟を駆動するのだ。

EBMと出会ったあの講義で、『既存の概念、思想を変えるのは、生成的な言語である』ということを僕は学んだ。それは今となって明確にわかる。大事なのはコンテンツが明日から使える知識ではなくて、生成的な言語のなかに存在する、薬剤師としての歩き方というメタメッセージを受信できたことだった。そして今にして、やっと府に落ちたという事や、あの時のことはこういう事だったのか、とつながることも多々ある。今にしてやっと府に落ちたことがわかるって言うのは、我ながら"ややいけている"のではないかと思う。僕が僕なりにどう思考できたのか、その仕方を俯瞰できたのではないかと思うのだ。その仕方を俯瞰しないと、他の人にそれを言語化して伝えることができない。そう思うのだ。僕はよいレポーを書き社会的に高得点を頂くために文章を書くわけじゃない。

2014年11月2日日曜日

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

丸山 圭三郎  () (ちくま学芸文庫)



言葉はものの名前ではない。それは表現であり、意味であると著者は言う。ソシュール言語学の入門書的な位置付けとなるだろうが、本編、約140ページの中に記述された内容は、僕の思考を180°変えるのに充分すぎるものである。『言葉とは物の概念の呼び名である』という、いわゆる常識をくつがえす。言葉を知る以前より、分類、区分された世界など存在しないのだ。この考え方、いわゆるソシュールの思想、丸山言語哲学は僕の医療との向き合い方を変えてくれた。言語学と医療については以前に少しまとめてある。

地域医療の見え方:言語学と医療

もし興味があれば、ほんの少しでも眺めてみていただけたら幸いである。

言葉と名何か。僕らが、この世界を把握して、認識し、概念化しているというのは、言葉を通して世界を分節しているからに他ならない。言葉を知る以前の現実は混沌とした連続帯がただただ拡がるのみである。言葉はこの連続帯に適当な切れ目を入れてカテゴライズしているのだ。すなわち言葉は物事の名称リストではないのである。

日本語で兄と弟という2つの言葉があるが、これはすなわち僕ら日本人は兄弟を兄という年上の存在と、弟という年下の存在に分節して思考し概念化している。一方英語ではどうだろうか。兄弟は英語ではbrotherであろう。こちらは原則的に兄と弟を区別しない。当然ながら二人の子供のがいたら双子ではない限りにおいて、どちらかが年上であり、一方は年下であるはずだ。brotherには年上と年下を区分するという仕方の意味を含まない。言葉の種類によって、その言語話者が有する認識に応じて、目の前の分類の仕方が変わるのだ。

言葉は、それが話されている社会のみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することに他なりません。(P17)

たとえば僕らが英語を学ぶとき、単に日本語に対応した英単語を覚えるという事ではないのだ。それは英語話者の視点で、世界をとらえなおすことに他ならない。

言語次第で現実の連続帯がどのように不連続化されていくかという、その区切り方自体にみられる恣意性(P124)

言葉は恣意的なものだという。動物の犬は日本語ではイヌであり、英語ではdogであり、その対応は恣意的であるという意味での恣意的だけではない。それは言語次第で言葉に含まれる意味価値の重なり方が一様ではないということだ。虹は太陽光線のスペクトルか何視化したものであり、普遍な物理現象のように思われる。

虹は日本語では7色だが英語では藍色という意味価値観 はなく、6色で表現される。リベリアの一言語であるバッサ語ではなんと二色で表現される。これは何を意味しているのだろうか。言葉は文化自体であり、思考形式に他ならないのだと思う。同じ現象や事物を、それぞれの言語社会に属する人々がどのような価値観でそれを概念してきたのか、そういった問題が垣間見える。


視点が事物を構築する。僕らはそのように構築された世界を客観認知しながら生きているが、世界は言葉が分節し概念化するのだという事を時に忘れがちである。分類やカテゴライズは極端に言えば、ある種の思想に過ぎない。この世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、言葉と言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように言葉によって切り取られる世界が変わる。

2014年10月31日金曜日

自分ということ (ちくま学芸文庫)

木村 敏  () (ちくま学芸文庫)



自分のことは自分がよく知っているとか、自分探しの旅に出る、というようなことを聞くし、かつて僕もそのような意味において、自分を見失った、とか、自分探しの旅に出たことがある。旅に出た先で、自分なんて探しても無駄だという事に気付いた。自分という「もの」はどこを探しても見つかるものではない。そうして探している自分そのものは何なのだという事である。すなわち自分探しというような場合において、自分という「もの」を探すということは不可能だと言わざるを得ない。

本書は精神科医の木村敏先生による「あいだ」の哲学の入門書であり、その内容は3部構成で展開される。最後の3章はかなり難解であり再読が必要であろう。僕なりに理解できた1部、2部についてここではふれておこうと思う。

僕は以前に、アルツハイマー型認知症をテーマに「もの」と「こと」について簡単に言及したことがある。  日経DIオンライン:軽度のアルツハイマー型認知症にサプリメントは有効か

「もの」と「こと」の違いとは何であろうか。「もの」とはさしあたって主語や目的語のようなものだろう。たとえば、時間という「もの」、空間という「もの」、花という「もの」。これに対して「こと」とは述語を占めるものである。美しいという「こと」。人は、花という「もの」は美しい「こと」として感じているわけである。

たとえば、「この花は美しい」という「この花」というのは、もちろん「もの」ですが、これに対して「美しい」というのは美しいという「こと」でありまして、主語としての「この花というもの」に対して「美しいということ」が述語の位置にくるのですね。(P100

「もの」や「こと」、これらの存在場所をめぐるテーマが本書のもっとも肝要な部分であろうと僕は思う。「もの」というのは空間と時間の座標で規定できる場所に存在している。机という「もの」は“教室に置いてある”というような言明は可能である。それでは「こと」のほうはどこに存在するのか。机がここにあるというのは分かりやすいが、美しいという「こと」はいったいどこにあるのか。

私は、この「……ということ」としてとらえられるような述語的な意味の存在する場所、「こと」のありか、それが「あいだ」という場所なのだと思っています。たとえば「この花は美しい」という場合には、私と「この花」というモノとのあいだに「美しい」というコトがあるP103

「あいだと」とは漢字で「間」とかく。間とはある物体とある物体との「あいだ」というようなbetweenというような意味で使うことが多い。時に日本語では「我々の間」ではというような特定の集団との境界のような「あいだ」を意味することもあるし、「機が熟さない間は」というような「あいだ」を意味するようなこともある。この場合、「あいだ」がbetweenのようにどこから始まり、どこで終わるのか明確に規定するのは困難である。この意味における「あいだ」とはすなわち、機が熟するまでの時間的進行が完了するまで、というような意味が含まれている。

このように「あいだ」とは何も物体と物体の空間を埋める「空白のようなもの」という意味だけを有しているわけではない。むしろ、空白のように思えるこの間こそが重要な意味を持つのである。

本書では離人症という精神疾患を取り上げている。

離人症がじつはどういう症状になるかと言いますと、まず、いちばん多いのは、ものの存在が分からないということ。つまりこういういろいろな身のまわりのもの、あるいは景色とかそういうものが存在するという感じが分からない、ものがあるという実感がない、何かピンとこないという、そういう言い方をされる場合が多い。(P105

「ものの存在がわかならい」というこの精神疾患は非常に珍しいものではあるものの、誰しもが発症しうるといいます。

「この花は美しい」という場合において、私と「この花」というモノとのあいだに「美しい」というコトがある。私とこの花というモノのありかは、時間的、空間的に規定できるモノとして確かに存在する。この花の意味としてとらえられている「美しい」というコトは私と「この花」の間にある。離人症ではつまりこの間に存在する「こと」というものをうまくとらえることができないのではないか。「あいだ」が分からなくなるということはすなわちコトの存在場所の喪失を意味している。離人症患者では自分という「こと」が実感として感じられない。すなわち、「みずから」という感覚の欠如である。僕らが常々、自分として規定しているものはこの「みずから」という感覚に他ならない。


自分という「もの」はどこにあるのかという、最初の問いに戻りたい。自分という「もの」としてあらわされる何かがあるというのは第3者の目から客観的に見たときのみ存在しうる言明である。少なくとも自分が自己の中に自分という「もの」はこれだと、明確に掴み取れるものなど存在しない。自分とは、僕の内部にあるものではなくて、僕と世界との、人と人との「あいだ」にあるわけだ。僕たちはこの「あいだ」に存在することで、やや不安定な日常を生きている。そしてときに苦しみ、自分という「こと」を失ったり、ときに幸せを感じながら、その時と時の「あいだ」を生きているに違いない。

2014年10月29日水曜日

「生物にとって時間とは何か」(角川ソフィア文庫)

池田 清彦 () (角川ソフィア文庫)



本書は生物学者池田清彦先生による生物固有の時間を捉えなおすという試みである。元本は2002年に哲学書房から発刊された『生命の形式――同一性と時間』であり、本書は構造主義生物学を提唱した著者が生命におけるシステムの同一性を、ソシュールの構造主義的な概念を軸に記述した思索をさらに発展させたものである。その内容の根幹をなすものは、カールポパーの3世界論を道具に意識と表現における同一性と時間の関係を言語化したことにあると僕は思う。

カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper1902年~ 1994)は、イギリスの哲学者である。反証可能性を基軸とする科学的方法の提唱は非常に有名である。反証されえない理論は科学的ではない、というのがポパーの考えである。ここでは反証主義については言及しない。本書のテーマである時間と同一性はポパーの3世界論を手掛かりに展開される。

ポパーの言う3世界とは概ね以下のような分類である
(世界1)事物(物的対象)のような物理的世界
(世界2)思考過程のような主観的経験の世界
(世界3)言明それ自体の世界、すなわち表現の総体

世界3は世界2が生み出すものにもかかわらず、世界2が消滅しても世界3それ自体は存在し続けるという。

本書ではキリンを例にこのことを解説している
例えば、キリンという動物について考えてみよう。キリンという動物そのものは世界1の上にあり、キリンという表記は世界3の上にある。厳密にいうと世界3上にあるのはキリンと言う表記だけで、それは世界2を抜きにして世界1上のキリンと対応しているわけではない。人類もキリンも滅んで書物だけになってしまっても、キリンという表記は、いつかそれを解読してくれる知的生命体を待ちつつ、世界3上にあり続けるだろう。(P69

世界1上のキリンは不変ではありえない(キリンは生物として時間がたつにつれ年を取りやがて死にゆく)が世界3上のキリンは不変である。しかし世界3上のキリンは、キリンを見知っている僕らが思考する世界2上のキリンの同一性とは異なる。

たとえば、キリンをコトバだけでしか知らない人が、初めてキリンを見たときにそれがキリンだとわからないことは大いにあり得るのである。この人は世界3上のキリンの同一性を知っていても、キリンを同定できると言った形の同一性の形を世界2上に持っていなかったわけだ。(P70

僕らは教科書やテキストのような世界3上から様々なことを学ぶが、世界1と関わることなしに、世界3上の記号のみから世界1を措定することは不可能であるにも関わらず、世界3上の言葉が、世界1を措定できると錯覚している。すなわち世界1上には世界3上のコトバによって指示できる同一性が存在するに違いないという信念を持っている。科学の錯覚体系とはまさにこのことであろう。
世界3上に存在するのはすなわち記号に他ならないわけで、本来はこれが世界2に接続することで世界1を措定できるというプロセスを経る。しかしながら歴史の教科書を勉強している時のことを思い出してほしい。

徳川家康と言う名前は教科書上に存在する記号(世界3)に過ぎない。そして僕らは世界1上の徳川家康そのものを知り得ない。にもかかわらず、僕らの思考の中(世界2)には徳川家康が確かに存在する。世界3は世界1とは独立して存在が可能なのである。すなわち実存するかしないかが問題なのではなく、大事なのは言葉の使い方により規定される同型性の問題である。これは時間を生み出さない形式であろう。コトバでしか知らないものは何であれ時間を孕まないと著者はいう。

世界2によって解読され、世界1へ接続できるようなコトバの同一性は、これとは大きく異なる。本書ではこれを「時間を孕む固有名の同一性」として定義される。例えば幼少のころより仲の良い幼馴染Aと昨年であったばかりの友人Bを考えてみよう。直近1年間においては自分とAの時間断片と自分とBの時間断片にそう大きな違いはないだろう。しかしながら10年前はどうであろうか。10年前のAを措定することはできるであろうが、Bを措定することは難しいかもしれない。人は何らかの「同一性を生み出す同一性」を認識している。時間的継続性あるカテゴリを形成している脳内のプロセスがあるのだろうか。幼いころの写真に現在の面影を感じるのはそういった同一性のカテゴリを形成する脳内のプロセスの所為であろうか。

「時間を孕む固有名の同一性」と言うのは非常に重要なポイントである。化学・物理学的な同一性を規定する化学法則や物理法則とは対極的に、生命に内在する同一性とは時間を孕むものである。例えば癌という物の同一性を考えてみよう。胃がんは生命に内在する一種の同一性により措定されたもので時間を孕む変なるものである。変なるものとは進行し、やがて転移し、人を死に至らしめることからも自明のことのように思える。すなわち胃がんとは変なるものとしてはじめて胃がんたり得るのである。不変の同一性を保つのであればそれはもはや胃がんではない。また生命にとって重要な「生き死に」に関わるような変化をなさなければ、それも胃がんとは言えないかもしれない。このように胃がんという同一性を考えるうえでは時間を孕むという側面が非常に大事なわけだ。極端な話、それにより、治療するかしないかが分かれる。本来はそうあるはずである。言い換えれば癌は予後を込みに考えることなしに取り扱うことができない。現代医学では胃癌はモノではなくコトとして定義されており、時間の概念を孕まない。世界3上の胃がんが世界2により解読され世界1に接続された時点で、本来は時間を生み出す。だがしかし、胃がんは本来時間を生み出す形式にもかかわらず、時間を排除した定義付けがなされているのである。これは何も胃がんに限ったことではない。たとえば「高血圧」という病名は本来「血圧がやや高く、その後のあなたは脳卒中がちょっと起きやすい病」という定義をすべきで薬物治療はそういった病名が付いた人のみ開始されるべきなのだ。高血圧や糖尿病と言った慢性疾患を初めとする、およそ病名と呼ばれるようなものは時間を生み出す形式であると僕は考えている。

future landscapes

このブログを始めるにあたり、簡単にではありますが、その趣旨をまとめておこうかと思います。

このブログは、簡単に言えば僕が読んだ本から受けた示唆を言語化し記述していくというものです。いうなれば単なる感想文にほかなりません。印象的な文体や失いたくな言葉の数々を、ここに残していけたらと考えています。

僕の本職は薬剤師です。普段読む本は、その多くが薬学、医学関連の専門書ですが、その合間に読んだ一般書を中心に取り上げたいと考えています。

小学校5年生の時、ドイツの児童文学作家であるミヒャエル・エンデの「モモ」という本に出会い、夢中で読んで以来、本が好きになりました。薬学部へ行こうと思ったのも東北大学薬学部ご出身の瀬名秀明さんの小説「パラサイト・イブ」がきっかけの一つではあります。本との出会いは時にヒトが進むべき道を大きく変えていきます。

僕にとって本を読むという事は、コトバを得る、そんな感覚に近いと思います。いまだ自分が出会っていない、物の見方、考え方、そんな混沌とした何もない世界を、コトバという枠組みが、秩序ある世界に編み上げていく。本を読み、整理されていく思考は、まるで砂漠の何もない砂地に、きれいな模様を描き出すように、世界に彩を加えてくれます。読書とはさしあたってそのようなことです。

魅力的な文体、あるいは僕の心に響くメタメッセージ、そういった「文法」をremarkしたい。それがいつまでも消え去らないように、僕の思考の中に存在し続けてほしい。本は僕の未来、その景色そのもの。future landscapes


そんな本と思考をつなぐブログにしたいと考えています。