2015年1月19日月曜日

動的平衡





福岡伸一  ()

ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer18981941年)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者です。安定同位体元素を用いて生体内での代謝を追跡する手法を見出しました。生物が摂取する食物に含まれる分子が瞬く間に身体組織へ移行し、そしてその次の瞬間には体外へ排出されていることを観察し、生命現象はそのような流れの中でこそ存在しているという事を明らかにしたのです。

シェーンハイマーは窒素を放射性同位元素でマーキングしたロイシンを含むエサを成ネズミに与えました。ロイシンは体に取り込まれやがて、尿中排泄されるだろうと誰もが考えていました。しかし取り込まれた窒素は、そのまま尿中には排泄されることなく,体内に存在する蛋白質に取り込まれ、全身の組織へと分散されていたのです。そしてこの間、ネズミの体重は大きく変化しませんでした。すなわち、タンパクの合成と分解が同時的にしかも別々の場所で行われていたという事です。このように合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とは、そのバランスの上に成り立つ「効果」であると著者は述べます。生命現象とは、因果関係ではなくただ平衡状態があるに過ぎないと。

エントロピー増大の法則、まさにこの世の中の縮図を表した法則のように思います。この世のあらゆるものはこの法則にあがらう事が許されない。だがしかし唯一生命だけはこの法則に必死にあがらっているように思います。エントロピーとは一言で言えば乱雑さを示す指標で、秩序あるものから無秩序なものへ向かうほど大きくなります。秩序ある状態から無秩序な状態へ、世の中は基本的にはそのような仕方で動いていきます。すなわち形あるものはいつか壊れていきます。

熱湯を氷水に入れると、熱湯の温度はどんどん下がり、氷水の温度は上昇し、やがて室温と同じ温度になり変化が止まります。この見かけ上変化が止まった状態を平衡状態といます。高校化学を思い出します。

ABC 

化合物Aと化合物Bを反応させると化合物Cになる。これは不可逆反応です。エントロピー増大の法則は基本的には不可逆反応でしょう。ABという秩序ある分け方も、時間の流れとともにその境目があいまいになりCになってしまう。

ABC

これは平衡状態を示します。実験室の試験管の中では反応が止まったように見える。だけれども実際はものすごいスピードでABCABCという反応が繰り返されている。

生物も例外なくこのエントロピー増大の法則の影響を受けます。しかし生物はエントロピー増加による破壊を受ける前に自身を破壊し再構成するのです。これをすなわち動的平衡と呼ぶのです。エントロピー増大の法則にあがらう唯一の方法は,システムの耐久性と構造を強化することではなく,むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのだと著者は述べます。
そして「生きている」という、この実感はどこから来るのか。それはこの生命体を構成している物質の破壊と再生の繰り返し、すなわち動的平衡の「効果」であると福岡伸一先生は仰るわけです。動的平衡はいわば生命がエントロピー増大の法則にあがらうために採用したシステムにほかならないわけです。

「すべてのシステムは、摩耗し、参加し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピー=乱雑さは、常に増大する。このことをあらかじめ織り込み、エントロピー増大の法則が秩序を壊すよりも先回りして自らを壊し、そして再構成する。生物が採用しているこの自転車操業的なあり方、これが動的平衡である」 (動的平衡2 P243

さらに生命というよりは、地球全体が動的平衡のシステムで動いているのです。動物が吐き出した二酸化炭素は大気中に放出された後、大気の構成成分となり、そしてやがて植物に取り込まれる。また大気中の窒素は一部の細菌の働きで植物に取り込まれ(窒素固定)やがてそれは動物に捕食され、排泄されていく。そうした物質の流れのなかで生命現象は営まれている。


高校生物程度の知識があれば、ほかに高度な知識は不要です。本当にわかりやすく、生命現象の根源的なあり方に迫る、そんな本です。是非2冊続けて読んでみてはいかがでしょうか。

2015年1月9日金曜日

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


僕はもともと歴史が好きなだけで、仏教や浄土真宗、親鸞については全くの素人ですから、これから述べる話はかなり的外れ場部分も多いかと思います。僕には親鸞の思想を理解するにはまだまだ思索が足りず、どうかご容赦願いたいところですが、少しでもその考え方をなぞることができたように思う部分をまとめたいと思います。

なぜそこまでして、親鸞なのかと言う感じですが、親鸞という人物が難しいと僕が感じるのは、本人自身が明確なメッセージを発信していないという事であり、それにもかかわらず、本人自身から自然とあふれ出る思想そのものが魅力的だという事なんです。その魅力の一端をうまく言語化できたらいいなと思います。

[親鸞の思想背景]
そもそも古代仏教って、基本的には「国営」だったわけじゃないですか。それが鎌倉期に一気に大衆化した。語弊があるかな。でも日本が世界に誇れる「文化」って鎌倉仏教じゃないの?というくらい日本人の思想に大きな影響を与えています。浄土真宗というのは親鸞によって鎌倉時代に生み出された仏教の宗旨のひとつですけれど、日本最大の宗派となっていますよね。日本人との親和性が極めて高いというよりほかないこの思想構造はなかなか興味深いのです。

親鸞の思想が形成される背景として当時の危機的状況を込みで考える必要があります。加えて大衆の多くに加持祈祷を旨とする天台・真言が民衆を救うものではないという思考が共有されていた。親鸞自身が経験したであろう文応元年前後の大飢饉により途方もない数の死者を目の当たりにしたという事、武士の台頭により各地で争いが多発していた時代、そういった背景が、その思想に大きな影響を与えているのだろうかと思います。
目の前の一人を救う、それが「善」だと思うな。善悪について親鸞は、わからないよと言う、感じで何も語っていないようですが、途方もない死者を前に浄土思想をどうリアルにつなげていくかということが親鸞の思想の根底にあったのではないかと推察します。
人間はただ不可避に促されて生きるもの。そういった現実をまざまざと見せつけられる世界に生きる人々へ。そのすべてを救うためにはいわゆる貴族宗教による加持祈祷の類で現世利益を求めることは絶望に近いほど無駄なことだと認識していたのだと思います。親鸞は常に死者を土台にして考え、その救済の思想を展開するにあたり死後の世界を根本に置いたのでしょう。

[悪人でも救われるのか]
「自分を善人だと思い込んで、正しい行いをしているつもりになっている人で”すら”救われる。自分を煩悩まみれのどうしようもない悪人であることを自覚して、仏に頼る人なら、なおさら救われるのだ。」
いわゆる「悪人正機」ですが、自分の意思や努力で善き状態を保っているのではない。決して当たり前ではないということの自覚は本当に大切なんだと思います。
親鸞いわく、「縁があれば、千人殺してしまうかもしれない。殺していないのは自分が善人だからではない。殺さないのは自由意思に基づく行為の選択ではない。」自覚したり意思で操作できるような悪などは、それほど重要ではないということかもしれません。ヒトはもっと根元的悪を抱えているのでしょう。人に為と書いて、偽りと読むように…。

また親鸞は「愚者になりて往生す」愚者になれと言うのです。愚と悪というのは限りなく非宗教的だと言うことでしょうか。
念仏さえ唱えれば浄土に行けるという誤解。これは因果ではなく、親鸞の思想のなかにある契機だということです。ここを誤解すると親鸞の思想は根底から崩れていきます。念仏を唱える事で浄土に行けるというのは自力に他ならないからです。そうではなく、宗教への執着がない愚者にこそ、救いの道があるということなのかもしれません。

[他力思想とは]
不可避的な仕方で到来するもの、それが運命と言うものです。ただ自ずから。親鸞の他力の核心はここにあると僕は考えます。自然をnatureとしてしまうと、親鸞の思想を理解するのは困難な印象です。

「じぶんのほうではからわないのを、自然と申すのです。これがすなわち他力であるのです。(歎異鈔)

また親鸞は一念、多念どちらにも偏執するなと言います。では“たった一念”でもいいのか、ということでは決してありません。絶望的に願い叶うことのない状況において、修行により何かを達成するということの不可能性が自明のこととして不可避的に自身に迫ったとき、多念により何かを達成するというのは、自力の思想に他ならないということだと思います。
そのような状況における、自力の思想では、一般の民間人すべてを救うことはできなかったんだということ、他力の思想への転換はこのあたりが背景にあったのではないかと思います。 
念仏を唱えれば唱える程救われる構造と言うのは、自分の資力や知力で何かを達成できるという構造に似ています。そもそも自分の資力や知力が絶望的にかなわない状況であれば、スタートラインにも立てない人たちがいて、そういった人たちは救えないということになります。そしてこういった人たちが当時の大多数だったわけです。僕も含め、“他力”を勘違いしている人は多いのではないでしょうか。決して単純な他人任せではないのです。
親鸞の思想、それは厳しい現実と向き合わねば理解できない思想なんだと思いました。貴族的仏教思想とは対極にあるというか、親鸞の思想は当時の人にとって本当に現実的な教理だったんだと思います。どんなにもがいても、もはや“善い”ことなんてできない世の中、あるいは状況でも、それでも救われるというのは「そんなあなたでも決して見捨てません」というメタメッセージが込められている。


今、親鸞の思想を学ぶのにどんな意味があるのか僕にはよくわかりません。ただ世の中には様々な境遇のなかで、自分の進むべき、あるいは目指したい道を閉ざされてしまうことが、不可避的にやって来ます。どんなに社会に貢献したいという熱い志があても、社会的地位、経済的問題、人間関係、時間的余裕、そういった様々な要素、これは言い訳などではなく物理的に志が達成できないことがあるんです。そういった、自分の資力や知力で善の行いを実践することが、絶望的に叶うことのない状況のなかで、「あなたの行いは何であれ、あとは任せなさい」というメッセージで救われる人は多いのではないでしょうか。

誰でもできると言うのは決して「簡単」という意味ではありません。やりたくてもできない人のためにできるシステムを作るということ。僕は親鸞から学びました。

2015年1月5日月曜日

日本霊性論 (NHK出版新書 442)

内田 樹  (), 釈 徹宗 () (NHK出版新書 442)



このブログでは、いわゆる“ですます調”を用いないで、淡々と文章を書いてきましたが、やはり僕にはなんとなく、“ですます調”のほうがしっくりくるんで、本年から文体を変えようかと思っています。

[霊性とは何か]
「霊性」なんて聞くと、僕は最初、なんだかオカルトのようなそんな印象を持ってしましました。霊性って何でしょうか。日本は本当に多様な宗教性に満ちた国ですが、組織的な特定の宗教というと、やや抵抗を覚えるような、そんな印象はないでしょうか。しかしながら日本人としての生活の中に宗教性は満ち溢れています。年が明ければ初詣に行きますし、クリスマスだって何かしらのイベントを期待するでしょうし。結婚式をチャペル様式、あるいは神前様式などで執り行う事でしょう。ハロウィンだってイベントがありますよね。日本の現代社会ではこのように多様な宗教性が習慣化している、宗教性がある意味で常識に登録されている世の中を僕らは生きているわけです。
 そもそも日本人古来の宗教性とは何でしょうか。日本の歴史を紐解く中で、古代史までさかのぼると大きな宗教性として仏教の存在は外せないでしょう。仏教公伝には諸説ありますが、僕は覚えやすいので538年(ごさんぱい)なんて暗記しています。時は奈良時代、以後平安、鎌倉に至るまで、仏教とはほぼ国営と言っても過言ではないくらい、国によって管理されてきたといえましょう。聖武天皇による国分寺、国分尼寺の建立などは国家的プロジェクトです。政治とも密接なかかわりを持っており、桓武天皇が平安京遷都と余儀なくされたのも奈良仏教(南都六宗)の影響は大きかったといえましょう。
 平安時代になると、真言密教は藤原氏を代表とする貴族たちや皇族の信仰を集め貴族仏教の様相を呈してきます。平安も末期になると、武士の台頭とともに、貴族の政治への力は弱まり、仏教は徐々に貴族から大衆への文化として移行するようになってきます。特に鎌倉時代に興起した浄土思想は法然、親鸞により大衆へ受け入れられ、当時の日本人の根本思想となっていったのではないかと僕は思います。このような宗教性は長い時間をかけて習慣化し、物の考え方を基本的なところで決定するための判断材料、いいかえれば倫理感や常識といった、原理にはなり得ないが人の基本的な思考プロセスの源泉になっていったのではないかと僕は思います。いわゆるメタ宗教とでも言うのでしょうか。このような宗教性こそを霊性というのではないか、と僕は感じました。

[宗教とは何か]
 僕は無宗教であるというのはなかなかこの現代日本においては難しい言明のように思います。僕自身は特定の宗教教団に所属していませんが、例えば日曜日は休むものだと思っていますし、食べる前にいただきますといいます。もともと日曜日というのはキリスト教の安息日ですし、食べ物を頂くという事に感謝の気持ちもあります。もちろんこれを「習慣」という事もできますが、宗教性にはもともと教義のほかに儀礼もありますから、これを習慣や思想、あるいは哲学と厳密に線引きするという事はなかなか困難に思います。本当に無宗教であればそれは原始人以下の動物ではないかとすら思うのです。古代の人間も死者を敬い、死者とともに暮らしてきました。そういう観点からすれば、現実に存在しない何かに対して畏れや敬いを意識しながら生活している宗教性と言えるのではないでしょうか。

[宗教性が必要な局面とは]
以前、どこかに書いた気もしますが、僕はお寺や神社を歩くのが大好きなんです。もともと日本史が好きだという事もありますが、歴史的なものや建築に興味があるだけじゃなくて、やはり祈りの姿勢というか、畏れの感覚というか、“恐る恐るというような振る舞い”、そういったものの感度を高めることができればな、と思うのです。
自分がいかに無力な存在であるか、改めて自分に言い聞かせることで、自身の能力を超えてこちらに向かってくるものに対して、その備えを最大限までに引き揚げ、何とかやり過ごすことができるよう、その感度のセンサーを極限まで高めたいと思うのです。

3.11では福島第一原発が津波に飲み込まれ、全電源が喪失しました。海沿いに建てられた施設。非常電源。津波の想定。原子力はそもそも人がコントロールできるものなのか。人知を超えた何かのトラブルが発生したときに何をなせばよいのか、その畏れの感度をもう少し高めることができなかったのだろうか。宗教性が必要な局面とはこういったことではなかったのか。そんなふうに感じます。


「目に見えない何かをおそれ敬うこころ」を常々意識したいと思います。