2015年5月8日金曜日

ハイデガー「存在と時間」入門 (講談社学術文庫)




それでも世界が続くのなら、闇とともに生きよう
~ハイデガー「存在と時間」 忘備録~

マルティン・ハイデガーの「存在と時間」、20世紀最大の哲学書だなんていうから、原書はもちろんその翻訳にも手が出ない。いつも通り、入門書である。ただこの本、入門書といえど、かなり難解と言わざるを得ず、一度読んでもなにやらとてつもなくものすごいことが書いてある気がするのだが、その意味が全く分からない。なのでもう一度読み返しながらメモを取ることにした。そのメモをまとめて文章にしたものが以下である。まだ途中ではあるが、忘備録として残しておく。

ハイデガーは世界内に存在する存在者の中でも人間をとくに「現存在」という述語で表現する。僕なりに現存在とはなにか、簡単にまとめると、人間はなにかに規定される本質的性格を有さず、常に新たな自身で在る可能的存在であり、己の存在に現に関わりながらいかに態度をとるべきかを常に迫られる存在者のことであろう。そして、その存在の仕方を実存と言うわけだ。

現存在は可能的存在であるがゆえに、自身のあるべき道を選択、獲得、喪失を決断することができるわけだが、実はこの在り方の選択可能性が現存在の本来性、非本来性という二つの在り方を生み出している。本来性とはあらゆる苦悩を受け入れ、それに向き合い生きて行く、なかなか精神的に強い生き方、非本来性とは、苦悩から逃避し、現実逃避状態で生活するイメージ。苦悩とは最終的に死と向き合うというような話になるわけだ。

ハイデガーの客観的な世界認識の特徴として、世界が主観に対して外的に存在する客体であるのではなく、現存在(主観)は世界を世界として認識、把握するより以前に、常に世界の中に投入されており、このように世界内存在こそが、認識というシステムを駆動して行くと言っている。どういう事か…。

僕たちは通常、生きている日常空間に存在する事物的存在者の役割をあらかじめ了解しているという仕方で生活している。生活の中で、バスという乗り物のあらゆる構造を知り、理解せずとも、バスに乗り仕事へ行くような生活を当たり前にしているわけだ。認識作用に先立ち常に存在者と関わり在る存在の仕方。これをハイデガーは現存在の根本的な機構として「世界内存在」と呼んだんだ!なんかかっこいいね。

根源的な世界内存在とは、道具的存在者と関わりあいつつ在る存在であり、事物的存在者を意識しているわけではない。このような世界内存在を世界内部的な存在者との「交渉」と呼んだ。この交渉というあり方がハイデガーの思想の中でも最も重要だと僕が思う「配慮的な気遣い」という仕方である。

道具的存在者の存在のあり方は配慮的に気遣われるのであり、そのような仕方で切り離されてしまった際には単なる事物的存在者に過ぎなくなるということだ。これはハイデガーの思想の中でも非常に重要な部分だと僕は思う。ハンマーの例が取り上げられているが、通常、ハンマーが使用されている状態において、ハンマーは道具的存在者として存在していることに違和感はない。しかし、ハンマーが道端に落っこちていて、ぼんやりと眺められている状態であれば、ハンマーは単に事物的存在者として転がっているだけである。

道具的存在者とか事物的存在者というのは、それぞれの存在者に固有の存在様式ではなく、ある存在者により、道具的存在者となることもあれば、事物的存在者にもなりうるということだ。ただの石ころでさえも、ハンマーの代わりとして道具的存在者になりうる。

要するに道具的存在者とは配慮的に気遣われるもの一般を表す。そして道具との「交渉」とうあり方は「何かをするため」的な指示に従いなされてゆく。くぎを打つためにハンマーを打つ。のように。このように指示の多様性に適応することを導く作用をハイデガーは「配視」と呼んだ。また、現存在が当たり前のように「道具」を使用できるのは、道具的存在者の「適所性」の全連関を既に了解しており、この先行了解が適切な道具的存在者を指示することに他ならない。このような指示を与える、先行的な了解作用が行われている場が「世界」と呼ばれるものなのだ。

人間は自分の関心を、日常世界に存在するそれぞれの事物に向け、さらに事物を道具的に利用できるのは、その事物の基本的な使い道を、既に了解しているからなのだ。解釈は全くの無から始まるのではなく、先入見に基づく。まず存在という事実があり、それが知られて行くのであり、まず知があってそれが無からなにかを構成するのではない。

そして大事なのは道具的存在者が道具として機能すればするほど、僕らから「遠ざかって」しまうということだ。眼鏡をかけて、遠くの景色を楽しんでいる人はその眼鏡という道具的存在者自体を間近で見ることはできないであろう…ということだ。

現存在が他の人々との共在性に投入しているとき、言うなれば多数の流行的価値観に埋没している状態において現存在は本来的に自己自身として存在しておらず、他の人々の意向に支配されている。この他の人々を「世人」と呼ぶ。現存在はこのような状況において、自己の不断の自立性を失い自己の不断の非自立性という仕方で存在する。そしてこの世人という在り方は現存在の根元的な存在様式であるのだ。言うなれば人間は周りにながされ、自分自身で主体的に決断するというあり方から遠ざかっている状態であると、まずはそのような状態がデフォルトなのだと言っているのだと思う。

石も植物も動物も世界の内部で、他の存在者に出会いそれらを理解するという可能性は閉ざされているが、人間(現存在)だけが、世界を基盤としてそのなかで存在者に出会い存在者をかくかくしかじかのものと理解し開示することができる。それだけでなく、現存在はおのれの存在を漠善ながらも理解しそれに対する態度をとっている、おのれの存在に対して開かれている状態である。このことを現存在の開示性と呼ぶ。

近代認識論では気分や感情は客観化、対象化、数量化できないとかんがえられ、あまり重視されてこなかったわけだけど、存在論的には非常に重要な概念なのである。この気分という述語をハイデガーは情状性と呼ぶ。気分が露にする存在の重圧感は現存在が実存する限り逃れることができない。

なにやら小難しいはなしだが、簡単にいえば、例えばイライラしている気分だとすると、別にイライラしようとしてそんな気分になった訳じゃなく、すでに気がついたらイライラしているわけだ。気分は人間の意志を越えて、自分がすでにある状況に投げ出されていることを示しており、この状態を被投性と呼ぶ。イライラした気分は自分と回りの世界への適切な気遣いのあり方を見失う。気分はいつの間にか人間を襲っているのだ!この情状性を了解し、解釈し他者へ向けて話すことが語りと呼ばれる。

語りとは了解されうるもの、すなわち了解可能性の分節化に他ならない。それは解釈が作り出すのではなく、解釈に先立つ。解釈以前に発動し、了解内容に意味という切れ目をいれ、分節可能なものを提示し可視化することで、解釈に意義を提供する働きを語りと呼ぶ。 世界内存在の情状的な了解可能性が、語りとしておのれを言表する。言葉があり、それを組み合わせて語りがあるのではなく、語りが了解可能な意義を作り上げるからこそ、世界のうちで言語化され表明されるのだ。

日常言語は詩人のようにオリジナリティあふれたものじゃなく、すなわち了解内容を完全にその始原から分節化して言表するのではなく、世間的な常識的解釈パターンに依拠しながらそれを利用している。日常的な現存在はこのように平均的な了解の型にゆだねられているという。 現存在は本来的な自己存在できることとしてのおのれ自身から、さしあたり常に脱落しており、世界に頽落しているとハイデガーは言う。頽落とは実存の非本来性を表しているわけだが、世界内存在はそのもの自体で誘惑的なのであり、現存在は空談というあり方の魅力に弱い。

本来的なあり方が理想的な形態であるとか、本質であるとかそういう事はハイデガーは述べていない。非本来的なあり方と本来的なあり方は相互転換の関係であり、頽落はあくまで日常性というあり方そのものである。しかも僕らはこの非本来的日常的あり方ですら生き生きと感じているわけだ。

「不気味さのほうが安らぎよりも根源的な現象である」
不安のさなかにおかれた世界内存在としての現存在こそが最も根源的なのだ 。 不安は現存在を頽落から連れ戻す契機となる。 本来の自分を取り戻すには安心に甘んじるのではなく、むしろ不安の中にこそ重要なものがある。

日常性から非日常性へ、視線のシフト。現存在の存在の意味は「時間性」によって解き明かされるわけだ。未だ終わりに到達していない現存在が生の真っただ中でおのれの死へとさきがけ、おのれの可能性の全体へと意識的、自覚的に態度をとるさまを全体存在という。現存在は「死へとかかわる存在」。そして、死へとかかわる現存在の存在は気遣いにより構造化されている。

現存在は通常、死へとかかわる非本来的なあり方へ頽落しているわけだが、死へとかかわる本来的な存在は先駆と呼ばれる。先駆足り得るためには、「良心」を持とうと意志することが必要なのである。

ではまず、ハイデガーは「死」をどのように考えたのだろうか。人間にとって死とは何だろうか。

死という現存在各自の終わりは落命から隔たっている。

どういう事か…

落命(いわゆる人間の死)は他者の死亡事例に関する経験から、引き出された事物的に出来するもろもろの死亡事例であり、一般的な「知識」に過ぎない。そして、死は未了という性格を帯びている。未了とはおよそまだ存在せず、しかも現存在がおのれに先んじてという仕方でおのれ自身のほうからそれに成らねばならない当のものである。いうなれば死は最極限の未了ということだ。

死はあらかじめ潜んでいて、突如僕たちに襲い掛かるものではない。死は人の外部にあるのではなく、現存在の内部で胎を結んでおり、そのつど不断に現存在の中へと立ち現れ、僕らを脅かす。死は、現存在の存在可能性に他ならない。現存在は存在している限り未了である。果物が熟して完熟(完成形)になるのとは異なり、現存在は「完成」なくして終わる。

大事なのは死という最極限の未了はいつ訪れるかわからないということだ。すべての魅了が最極限の未了になるうる可能性を秘めている。すなわち死はあらゆる瞬間に可能となる。死とは現存在の固有な、没交渉的な、追い越しえない、確実な、無規定的な可能性と表現される。このような死、ああ死は、現存在が存在する限り、現存在が引き受ける一つの存在の仕方なのだ。

「人はいつか死亡するが、しかし当分はまだ死ぬことはない」という空談が、人の日常的な死へとかかわる非本来的な姿(頽落している姿)を浮き彫りにさせる。死の与える衝撃を「人は死ぬものだ」という曖昧性な出来事へと変換することで現存在のおのれの死から逃避することへと誘惑する。そこから抜け出し、おのれを取り戻すために如何にすべきか。

現存在を「おのれ自身へと連れ戻される」その契機が良心である。良心はその性格上、呼び声と呼ばれる。世界内に頽落している非本来的な現存在、その現存在が呼び声に射当てられるという仕方で本来的なおのれを取り戻す契機となる。

具体的にみていこう。被投性が浮き彫りとなる不安という根本情状性、この不安が呼び声を気分付ける。現存在は、呼び声を介して不安という気分を表明するわけだ。そして、現存在が呼び声を真正面から聞き取るとき、そこに良心を持とうと意志することが生起する。これが、本来的な存在を選択するということに他ならない。

良心の呼び声は現存在を被投性のうちえと呼び返しその非力さを開示する。その非力さを真正に引き受けることができるのは不安の気分の内においてであり、良心を持とうと意志することは不安を受け入れようとする用意になる。本来的な開示性、現存在の本来的な存在をあらためて決意性という述語で表現する 。

決意性か非決意性かという二者択一を迫られるとき、現存在は常に頽落への誘惑にさらされる。この決意性に固有な選択するという仕方の厳しさが最高潮に達するのが、現存在が無規定的に確実な死への可能のうちへと先駆し、選択そのものが不可能になってしまう時が不断に切迫していることに気づく時である

「死への先駆と決意性は連関している 」

時間性は先駆的決意性という現象に即して経験される。時間性とは現存在の存在の意味である。時間性という現象は非本来的な現存在には体験せられ得ない。

時間は実態的なものとして存在するのではなく、おのれの実存に関わりつつ、おのずから生成される。これを時熟と呼ぶ。ハイデガーの時間論は過去を既在、現在を現成化、未来を到来と呼び変える。到来こそがおのれがどうありうるかという可能性を表し現存在の本来的なあり方を提示する。

本来的な到来は先駆と規定され、非本来的な到来は予期と名付けられる。また本来的な現在を瞬視、非本来的な現在を現成化と呼ぶ。瞬視とは、おのれの本来的到来にもとづきつつ、また既在性を引き受けながらおのれの状況を偽りなく目差し、その方へと決意しつつ移行し突き破ろうとする構えのことだ。

ハイデガーの言う時間性とは、おのれへと向かって(到来)、何々のほうへ戻って(既在性)、世界内部的存在者を出会わしめる(現在)という三脱自態の統一のことである。

歴史的な事物を意識するさい、普通は過去を重視する。過去とはなにか。過去を過去たらしめるのは世界である。世界は世界内存在としての現存在というあり方においてのみ実存するというわけだが、ある事物に過去が宿るのではなく、その事物が帰属していた世界が過去となっているわけだ。

現存在は死へと先駆しつつ(到来)、おのれの本来的な可能性を伝承された遺産のうち(あるいは広義の過去か)から決意しつつ選びとるがゆえにのみ、幸運や不運に出会いうる 。この決意性のうちにおける、現存在の生起を宿命という。端的に言えば、宿命とは本来的なの存在可能性を具体的な目標として見いだすことであり、その目標をめがけて生きること、それこそが人間本来のあり方であるというのだ。死を紛らわすのではなく、不安から目をそらさず、僕たちに世界が続く限り、闇をしか見つめ、おのれの本来のあり方を取り戻せ!



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