2015年1月9日金曜日

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


僕はもともと歴史が好きなだけで、仏教や浄土真宗、親鸞については全くの素人ですから、これから述べる話はかなり的外れ場部分も多いかと思います。僕には親鸞の思想を理解するにはまだまだ思索が足りず、どうかご容赦願いたいところですが、少しでもその考え方をなぞることができたように思う部分をまとめたいと思います。

なぜそこまでして、親鸞なのかと言う感じですが、親鸞という人物が難しいと僕が感じるのは、本人自身が明確なメッセージを発信していないという事であり、それにもかかわらず、本人自身から自然とあふれ出る思想そのものが魅力的だという事なんです。その魅力の一端をうまく言語化できたらいいなと思います。

[親鸞の思想背景]
そもそも古代仏教って、基本的には「国営」だったわけじゃないですか。それが鎌倉期に一気に大衆化した。語弊があるかな。でも日本が世界に誇れる「文化」って鎌倉仏教じゃないの?というくらい日本人の思想に大きな影響を与えています。浄土真宗というのは親鸞によって鎌倉時代に生み出された仏教の宗旨のひとつですけれど、日本最大の宗派となっていますよね。日本人との親和性が極めて高いというよりほかないこの思想構造はなかなか興味深いのです。

親鸞の思想が形成される背景として当時の危機的状況を込みで考える必要があります。加えて大衆の多くに加持祈祷を旨とする天台・真言が民衆を救うものではないという思考が共有されていた。親鸞自身が経験したであろう文応元年前後の大飢饉により途方もない数の死者を目の当たりにしたという事、武士の台頭により各地で争いが多発していた時代、そういった背景が、その思想に大きな影響を与えているのだろうかと思います。
目の前の一人を救う、それが「善」だと思うな。善悪について親鸞は、わからないよと言う、感じで何も語っていないようですが、途方もない死者を前に浄土思想をどうリアルにつなげていくかということが親鸞の思想の根底にあったのではないかと推察します。
人間はただ不可避に促されて生きるもの。そういった現実をまざまざと見せつけられる世界に生きる人々へ。そのすべてを救うためにはいわゆる貴族宗教による加持祈祷の類で現世利益を求めることは絶望に近いほど無駄なことだと認識していたのだと思います。親鸞は常に死者を土台にして考え、その救済の思想を展開するにあたり死後の世界を根本に置いたのでしょう。

[悪人でも救われるのか]
「自分を善人だと思い込んで、正しい行いをしているつもりになっている人で”すら”救われる。自分を煩悩まみれのどうしようもない悪人であることを自覚して、仏に頼る人なら、なおさら救われるのだ。」
いわゆる「悪人正機」ですが、自分の意思や努力で善き状態を保っているのではない。決して当たり前ではないということの自覚は本当に大切なんだと思います。
親鸞いわく、「縁があれば、千人殺してしまうかもしれない。殺していないのは自分が善人だからではない。殺さないのは自由意思に基づく行為の選択ではない。」自覚したり意思で操作できるような悪などは、それほど重要ではないということかもしれません。ヒトはもっと根元的悪を抱えているのでしょう。人に為と書いて、偽りと読むように…。

また親鸞は「愚者になりて往生す」愚者になれと言うのです。愚と悪というのは限りなく非宗教的だと言うことでしょうか。
念仏さえ唱えれば浄土に行けるという誤解。これは因果ではなく、親鸞の思想のなかにある契機だということです。ここを誤解すると親鸞の思想は根底から崩れていきます。念仏を唱える事で浄土に行けるというのは自力に他ならないからです。そうではなく、宗教への執着がない愚者にこそ、救いの道があるということなのかもしれません。

[他力思想とは]
不可避的な仕方で到来するもの、それが運命と言うものです。ただ自ずから。親鸞の他力の核心はここにあると僕は考えます。自然をnatureとしてしまうと、親鸞の思想を理解するのは困難な印象です。

「じぶんのほうではからわないのを、自然と申すのです。これがすなわち他力であるのです。(歎異鈔)

また親鸞は一念、多念どちらにも偏執するなと言います。では“たった一念”でもいいのか、ということでは決してありません。絶望的に願い叶うことのない状況において、修行により何かを達成するということの不可能性が自明のこととして不可避的に自身に迫ったとき、多念により何かを達成するというのは、自力の思想に他ならないということだと思います。
そのような状況における、自力の思想では、一般の民間人すべてを救うことはできなかったんだということ、他力の思想への転換はこのあたりが背景にあったのではないかと思います。 
念仏を唱えれば唱える程救われる構造と言うのは、自分の資力や知力で何かを達成できるという構造に似ています。そもそも自分の資力や知力が絶望的にかなわない状況であれば、スタートラインにも立てない人たちがいて、そういった人たちは救えないということになります。そしてこういった人たちが当時の大多数だったわけです。僕も含め、“他力”を勘違いしている人は多いのではないでしょうか。決して単純な他人任せではないのです。
親鸞の思想、それは厳しい現実と向き合わねば理解できない思想なんだと思いました。貴族的仏教思想とは対極にあるというか、親鸞の思想は当時の人にとって本当に現実的な教理だったんだと思います。どんなにもがいても、もはや“善い”ことなんてできない世の中、あるいは状況でも、それでも救われるというのは「そんなあなたでも決して見捨てません」というメタメッセージが込められている。


今、親鸞の思想を学ぶのにどんな意味があるのか僕にはよくわかりません。ただ世の中には様々な境遇のなかで、自分の進むべき、あるいは目指したい道を閉ざされてしまうことが、不可避的にやって来ます。どんなに社会に貢献したいという熱い志があても、社会的地位、経済的問題、人間関係、時間的余裕、そういった様々な要素、これは言い訳などではなく物理的に志が達成できないことがあるんです。そういった、自分の資力や知力で善の行いを実践することが、絶望的に叶うことのない状況のなかで、「あなたの行いは何であれ、あとは任せなさい」というメッセージで救われる人は多いのではないでしょうか。

誰でもできると言うのは決して「簡単」という意味ではありません。やりたくてもできない人のためにできるシステムを作るということ。僕は親鸞から学びました。

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